



完成を目指すのではなく、変化を受け入れ、壊し、作り直す。平尾成志の盆栽観は、人生の時間そのものと強く結びついている。
陸上競技から、盆栽の世界へ
平尾は、もともと盆栽の家系に生まれたわけではない。大学までは陸上競技に打ち込み、将来もまったく別の道を思い描いていた。転機は、京都・東福寺で見た庭園だった。
「正直、最初はよく分からなかったんです。でも、しばらく立ち止まって見ているうちに、これは“時間”をながめているんだな、と思いました」
完成した形よりも、そこに積み重なった時間に惹かれた。その感覚が、盆栽という世界へ足を踏み入れるきっかけになった。
海外で気づいた「伝わっていない本質」
師匠の言葉も、平尾の背中を押した。
「盆栽を、国内外問わず伝えられる人間になってくれ」
その言葉通り、平尾は海外へ出ていく。25ヶ国以上で、デモンストレーションやワークショップを行ってきた。だが、海外で盆栽を紹介するほど、違和感も募っていった。
「形や作り方は伝わるんです。でも、それだけだと、どうしても表面的になる」
盆栽は、決められた完成形を再現するものではない。木の状態を見て、その都度判断し、時間をかけて変えていくものだ。
「そこが、一番伝わりにくいんですよね」

盆栽は「壊してはいけない」ものなのか
多くの人が、盆栽に対して「一度作ったら壊してはいけないもの」という印象を持っている。平尾は、その考えに疑問を投げかける。
「盆栽って、壊しちゃいけないものだと思われがちですけど、実際は、何度も作り直します」
枝を切り、形を崩し、数年かけてまた作る。
「木が病気になったり、環境が変わったりすれば、そのままじゃいられないですから」
盆栽は、保存される“完成品”ではなく、更新され続ける存在なのだ。


洪水と、作り直し
その思想を、否応なく突きつけられた出来事があった。大雨による洪水で、平尾の盆栽園は水に浸かった。長年手をかけてきた盆栽の多くが、深刻なダメージを受けた。
「正直、きつかったですね」
弟子の中には、そのタイミングで去っていった者もいた。それでも平尾は、盆栽を前に立ち尽くすだけで終わらなかった。
「これは、作品創りの糧になる、って思ったんです」
失われた時間も、壊れた形も、すべてを引き受けて作り直す。盆栽は、人生と同じように、元には戻らない。

アートとしての盆栽
平尾は、瀬戸内国際芸術祭をはじめ、音楽や映像、パフォーマンスと盆栽を組み合わせた表現も行ってきた。
「盆栽は、もっと自由でいいと思うんです」
静かに飾られるだけでなく、人の動きや音、光と組み合わさることで、まったく違う表情を見せる。
「木は、置かれる場所によって、全然違う顔になる」それは海外での展示でも、強く感じたことだった。


人生が、作品ににじみ出る
平尾の作風は、人生の出来事とも無縁ではない。家族を失ったあと、作品の雰囲気が変わったと指摘されることもある。
「自分では、あまり意識していないんですけどね」
それでも木と向き合っていると、気持ちは自然と表れる。
「隠せないんですよ。盆栽は、生きているから」
喜びも、喪失も、時間とともに、枝ぶりや間合いとして刻まれていく。

完成ではなく、途中であるということ
平尾成志にとって、盆栽に「完成」はない。あるのは、その時点での最適解だけだ。
「だから、作り直すことを、怖がらなくなりました」
壊すことは、否定ではない。続けるための選択だ。盆栽は、育てて終わるものではなく、生き続ける表現なのだから。
相棒とは、時間を引き受ける覚悟
平尾にとって相棒とは、道具や木そのもの以上に、時間と向き合うことへの覚悟だ。変化を受け入れ、壊し、作り直す。そのすべてを引き受けて、また次の時間へ進む。
平尾成志の盆栽は、今日も完成に向かわず、生き続けている。


「師匠からもらったハサミに語りかけることで、緊張する自分を落ち着かせている」という言葉や、「海外では盆栽の形ではなく、精神性を伝えたい」という話からは、道具を通して自分自身を整えてきた時間が感じられた。


