



この連載では、第一線で活躍するプロフェッショナルたちに、仕事をともにしてきた「相棒」について語ってもらう。長く使い続ける道具は、やがて身体の延長となり、その人の時間や思想を映し出す存在になる。
今回登場するのは、尺八演奏家・藤原道山。40年近く向き合ってきた一本の尺八は、彼にとって単なる楽器ではなく、「自分の声」そのものだという。音が出なかった日から始まった相棒との関係を、まずはその原点からたどっていく。
音が出なかった、あの日
最初にその楽器を手にしたとき、まったく音が出なかった。
「生まれて初めて、“音の出ない楽器”に出会ったんです」
そう振り返る藤原道山の言葉は、少し笑いを含んでいる。だが、その瞬間の悔しさは、今でもはっきりと身体に残っているという。
小学校3年生の頃から、藤原は笛が好きだった。音楽の時間になると、誰よりも長くリコーダーを吹いていた。登下校中ですら吹いていたというから、その熱中ぶりは相当なものだ。
祖母は箏を教え、家には和楽器の音が常にあった。一方で、クラシックやジャズ、ロックも流れる家庭環境。音楽そのものは、特別なものではなく、日常の一部だった。
そんな藤原が尺八と出会ったのは、小学校5年生のとき。祖父の知人に尺八をやってみたい人いて、「一緒にやってみたら」と勧められたのがきっかけだった。だが、これまで親しんできた笛とは、まったく違った。
「吹いても、何も鳴らない。ピーピー音が出ていた世界から、急に無音になったんです」
音が出ないことが、これほど悔しいとは思わなかった。だからこそ、初めて音が鳴った瞬間の喜びは、強烈だった。
「本当に、ただ音が出ただけなんですけどね。でも、あの体験は一生忘れられないですね」

師匠の背中が、可能性を広げた
中学2年生の秋、15歳で初代・山本邦山に入門する。それまでに地元の師匠、そして山本師の弟子のもとで基礎を学び、ようやく本流に辿り着いた。
山本は尺八の世界において明確な「異端」であり、「パイオニア」だった。古典だけに留まらず、オーケストラやジャズとの共演。次々に生み出される新しい楽曲。それは、藤原にとって衝撃だった。
「今までにない尺八の音楽が、そこにあったんです。邦山先生の曲は技術的にも表現的にも難しくて、でも、ものすごく魅力的でした」いつか、自分もあの場所に立ちたい。そう思いながら、藤原は師の背中を追い続けた。
今回の取材で藤原が「相棒」と呼ぶ尺八は、1998年に手に入れたものだ。長さは、いわゆる“標準の一尺八寸”。この一本が、藤原の演奏の基準になっていった。
「吹き込んでいくうちに、この楽器が、自分の吹き方の基準になっていったんです」
中学生の頃から使い続けている尺八もある。だが、やはり先の一本は特別だ。
「この尺八をしっかり鳴らせるようになるまで、たぶん3年くらいかかりました」
息の量が足りなければ鳴らない。圧が足りなければ、音は痩せる。常にムラがあり、簡単には応えてくれない。
「でも、この楽器をちゃんと鳴らせるようになってから、他の尺八も、自然といい音が出るようになったんです」
厳しい一本だったからこそ、藤原の身体と感覚を鍛え上げた。


尺八は、自分の「声」
藤原は、尺八を「自分の声と同じ」と表現する。
「体調が悪ければ、そういう音になるし、調子が良ければ、ちゃんと応えてくれる」
竹でできた楽器は、湿度や温度にも左右される。だが、藤原はそれを「楽器のせい」にはしない。
「一番大事なのは、自分の身体です。喉や呼吸、ちゃんと息が吸えているかどうか」
年齢を重ね、50代に入ってからは身体づくりも意識するようになった。身体を動かすことで、息の状態が変わることも実感している。
「この楽器は、自分がやりたいことを、一番素直に体現してくれる存在だと思っています」
言葉では伝えきれないこと。感情の揺らぎ。積み重ねてきた時間。それらを、音として外に出してくれる。
「だから、相棒なんでしょうね」
40年近く寄り添い続けてきた尺八は、藤原にとって“道具”という言葉ではもはや足りない。それは、自分自身を映し出す、もうひとつの声なのだ。

—— 後編へ続く
次回は、30年使い続けてきた尺八と、「なるべく変えないでほしい」と願う理由について掘り下げる。
「藤原道山尺八コンサート」が愛知(2025/6/26)、大阪(2025/7/4)、東京(2025/7/10)にて開催。尺八とピアノのデュオで、ジャンルを超えた名曲の数々にオリジナル楽曲を交えたプログラムをお届けします。
公演の詳細はこちら:https://dozan.jp/concert/
また、デビュー25周年記念アルバム「邂 Kai」が発売中。
詳細はこちら:https://do-market.stores.jp/items/67d306f799747d63a81406d0




