



一度離れたからこそ見えた、家業という唯一無二の仕事
小川さんは、幼い頃から家業に携わっていたのでしょうか?
江戸時代の頃に摺師が誕生してから僕で7代目。関岡工房は曾祖父が始めました。祖父関岡功夫が2代目、師匠である川嶋秀勝が3代目、僕で4代目になります。
祖父に可愛がられていたので、物心ついた頃から工房で遊び、後に師匠になる川嶋の仕事を眺めていました。夏休みの自由研究のときに木版画を制作して、楽しかった記憶があります。
でも、その後は木版画から離れ、家業の手伝いなどはしなくなったんです。中学から大学までは、部活で始めた野球に夢中になりました。
スポーツマンだったんですね。そこから職人の道へ進むことを考えたのはなぜでしょうか?
離れて外から一度眺めてみたことで、摺師の仕事の魅力を改めて感じたんですよね。
就職活動のときにも、「家業を継いだほうがいいのかな」と漠然とした迷いはあったのですが、「職人って大変そうだな」と思ったこともあり、社会勉強も兼ねてリサイクルショップに就職する決断をしました。
家具家電の出張買取でお客様と話すなかで、「素晴らしい仕事じゃない?」といろいろな方が家業を褒めてくれる。魅力的な仕事なのかもしれないと、職人の道を考え始めました。会社員も楽しかったですが、一人っ子であり、師匠も年を重ねているので、僕が継がなければ関岡の歴史が途絶えてしまう。木版画の仕事を残したいと、24歳で家業に入ることを決めました。
会社を辞めて修業に入る前に、バックパッカーとして海外を旅されたとか。
3ヶ月あったブランクを活用して、ヨーロッパ、アメリカ、モロッコなど、さまざまな場所を回りました。修業に生かしたい想いもあり、ロンドンの大英博物館や、ニューヨークのMoMAなどにも訪れると、浮世絵が飾られ注目されていたんです。その光景を見て、自分がやる仕事なんだと、改めて腹が決まりました。

摺れば摺るほど、自分に返ってくる。使命感に燃えた修業時代
修業時代のことを教えてください。
祖父の弟子で関岡工房を受け継ぐ川嶋に師事することにしました。師匠は15歳のときにこの仕事を始めた、この道60年以上の大ベテラン。僕の母が生まれる前から関岡木版画工房に勤めていて、血はつながってないですが、家族みたいな存在だったんですよね。
だから師弟になるときは変な感じでしたね。身内のおじさんに教えを請う感じでこそばゆいというか。でも修業を重ねていくうちに、リスペクトが大きくなっていきました。
師匠はどのように教えてくれたのでしょうか?
どの工芸もそうだと思いますが、ひたすら摺って覚えるしかない。昔であれば最初は掃除から始めたものですが、師匠は僕が弟子入りしたときにすでに70近くだったので、早く覚えなければいけないと、早いうちから実践的な仕事にチャレンジさせてくれました。
ひたすら失敗して、量をこなしていくうちに覚えていく。最初のうちは1日あたり200、300枚を摺っても少ないほうで、慣れてくると400から500枚を摺れるようになっていきました。
それは、なかなか大変そうですよね。
厳しさはありますよ。最初の2年間ぐらいは朝の6〜9時で弁当屋でアルバイトしてから修業をしていたので、体力的にも結構きつかったんです。
でも、職人仕事の面白さは良くも悪くも全部自分に返ってくるところです。努力や鍛錬を重ねればそれだけ上手くなるし、結果お客様を喜ばせることができます。そこはスポーツ選手と似ていますよね。
だから、辛くても嫌だとは思いませんでした。さらに摺師の家に生まれた使命を感じていたので「絶対やってやるぞ」という意識があり、苦じゃなかったんですよね。5年の修業を経て、一通り技術を身につけて独立することにしました。


道具は嘘をつかない。不便な自然素材を使い続ける理由
関岡木版画工房が大切にしていることはなんでしょうか?
道具や材料を、江戸時代のものを受け継ぎ、できるだけ自然のものを使うことを大切にしています。
八百万の神に感謝して、自然を生かす日本人の価値観から生まれたものが工芸だと思うんです。機械製品も作られるなかで、伝統工芸との差異はそこにしかない。自然の素材が手に入らないのであれば、近いものを使用して作っていくのがいいと考えているんです。
なるほど。
たとえば、浮世絵を摺る本バレンは、竹の皮を撚り上げた芯に、和紙と漆を重ねて作ります。だから高価で、なかなか手に入らないうえに、摺り上げるときに力がいるんです。でも、現代では軽い力で摺りやすく改良されたベアリングバレンも出ています。でもそれは使わない。
僕の師匠も「本バレンで摺れなくなったら引退する」とよく言っていました。だって昔の職人はずっと本バレンで摺り上げていたわけじゃないですか。その言葉を聞いて、「しびれるな」と思ったんですよね。
しかし、なかなか昔ながらの自然素材が手に入りにくい状況はありますよね。
本当にそうです。和紙も江戸時代は楮100パーセントの手漉き和紙を使用していたのですが現在は手に入りにくい。浮世絵は越前和紙と伊予和紙との関わりが深いのですが、伝統ある越前和紙は2、3年待ち。そうなると僕らは仕事ができない。和紙職人の新規開拓や原料の楮農家さんのお手伝いなど、原料を調達するための取り組みを始めています。

工芸の循環を立て直し、自然と調和した暮らしを伝えていく
原料調達など、職人の枠を越えた取り組みに携わっているのはなぜでしょうか?
伝統工芸は、さまざまな職人や仕事が関係するシステムで成り立っているんです。木版画も、版元、絵師、彫師、摺師と分業していますが、和紙ひとつとっても、和紙問屋がいて、和紙職人がいて、原料を作る農家さんもいて、はじめて木版画を摺ることができる。
さらに木版画だけの需要じゃなく、他の工芸にも需要があったから問屋も成り立っていたんです。ひとつの事業が失われると他に影響してしまう。現代では、伝統工芸を支えるシステムが壊れかけていると思います。だから、そもそものシステムを支える仕事をしなくては存続できない。
そう考えると、職人の枠を越えて版元的な動きをしなくてはいけないと思い始めました。絵師と関わって新しい浮世絵を企画することや、原料も含めてさまざまなことを行わないと、職人の仕事を受け継いでいけないという想いがあるんです。
近々考えているプロジェクトを教えてください。
最近徳島県那賀町に元酒蔵だった物件を購入しました。江戸時代の浮世絵を販売する古本屋を経営するオーストラリアの女性と一緒にプロジェクトを立ち上げて、楮や版木に使う山桜を育てる場を作るプロジェクトを始めています。
那賀町には、楮の繊維を織る太布という織物があり楮の文化が根付いていて、和紙を作っている方もいるんですね。山桜も植林していて「版画の聖地じゃん!」と思ったんです。まずは古民家の改修から始めて版画の材料を作り、将来的には他工芸の材料まで供給できる聖地にできたらいいと思います。
伝統工芸を通して、自然と調和した暮らしの豊かさを伝える場にもなりそうですね。
僕がリサイクルショップで働いていた経験も大きいんですよ。いまの世の中って大量生産、大量消費で捨てられてしまうものも多く、「まだ使えるのに売ってしまうんだ」ともったいない気持ちで買い取りしていました。資本主義の全てを否定する気はないですけど、行き過ぎちゃう部分もあるなと思っていて。
農家の方や職人など、作る人にお金がなかなか回らない状況をどうにかしたいとも思っているんです。自然と調和したものづくりの豊かさを通して、職人や農家の方がハッピーになる取り組みを目指しています。
僕は浮世絵の精神性が好きです。もともと江戸時代、この世は辛いことが多いからと「憂き世」と書かれていました。それが文化の成熟とともに、明日をも知れぬ世ならせめて楽しく生きようという「浮世」に変わったと言われているんです。
現代もまた、先行きが見えず、どこか息苦しさを感じる時代かもしれません。でも、だからこそ僕は、自然の恵みを形にするこの仕事を、仲間たちと面白がりながら続けていきたいです。

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「THE 戸゜任朱邏東京圖ゑ ザ・ロビー 午後のひととき(ザ・ペニンシュラ東京図絵)」
版元:ザ・ペニンシュラ東京
監修:UKIYO-E PROJECT ザ・ペニンシュラ東京地下1階に展示中
Text by 荒田詩乃




