



福島県浪江町で300年以上続く伝統工芸「大堀相馬焼」。かつて大堀地区には、20軒を超える窯元が軒を連ねる“焼き物の里”の風景が広がっていた。しかし2011年、東日本大震災と福島第一原子力発電所事故によって、窯元たちは故郷を離れざるを得なくなる。
長年使い込んできた窯も、守り継いできた道具も、日々の営みも、大堀の地に残された。震災から12年を経た2023年、避難指示が一部解除されたこの土地へ、陶吉郎窯9代目の近藤学さんは戻ることを決めた。
「ここを、再び大堀相馬焼の産地にしたい」
その想いを胸に、近藤さんは、途絶えかけた伝統の火を再び灯そうとしている。

変わり続けることで、伝統をつなげてきた
力強く翔ける馬の絵柄、青みがかった艶やかな色合い、器の表面に広がる細かな青ひび。そして、熱いお茶を入れても手に熱が伝わりにくい独特の二重構造。大堀相馬焼は、日用品として親しまれながら、ひと目でそれとわかる独特の存在感を持つ焼き物だ。
大堀相馬焼と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、こうした特徴を備えた器だろう。昭和の時代には暮らしの定番として広く親しまれ、さらに海外への輸出品としても人気を集めるようになった。
しかし近藤さんは、「あくまで大堀相馬焼の“一つの形”にすぎない」と話す。
江戸時代から現代まで、その時代のライフスタイルや需要に合わせて、大堀相馬焼は作風や形を柔軟に変えながら、伝統の火をつないできた。だからこそ近藤さんは、「一つの形だけを守り続けることが、伝統ではない」と語る。


自然遊びと野球に明け暮れた少年時代
近藤さんが子どものころの大堀は、窯元や職人たちが朝から晩まで働き、窯の煙が絶えず立ちのぼる活気に満ちた場所だった。
「親父もおふくろも職人さんたちも、みんな朝から晩まで忙しくて、子どもに構っている暇なんてなかったんでしょうね。だから毎日、川に行ったり山に行ったり、とにかく自然のなかで遊んでいました。将来ここを継ごうなんて、まったく考えていなかったですね」
なかでも熱中したのは野球だった。高校では甲子園を目指し、大学ではプロを目指して、野球に明け暮れた。卒業後は、実業団も選択肢のひとつにしていたが、「サラリーマンにはなりたくない」という理由で実家の窯を継ぐことを決めた。

“土産品”で終わらないために、作家としての挑戦
技術を習得する一方で、近藤さんが力を入れたのが営業だ。さまざまな百貨店を渡り歩き、大堀相馬焼を売り込んだ。近藤さんが目指していたのは、大堀相馬焼を工芸品として評価してもらうこと。しかし、デパートの担当からは「相馬焼は観光地の土産品なので、デパートでは扱えません」と告げられた。
「このままだと、大堀相馬焼は“お土産品”で終わってしまうという危機感を覚えました」
昭和の時代に大きな成功を収めた大堀相馬焼。しかし、その人気ゆえに、“観光土産としての焼き物”というイメージが定着していたのだ。そこで近藤さんは、“窯元”として器を作り続ける一方で、“作家”としての道も模索し始める。大堀相馬焼の格を上げたい一心で、公募展へ作品を出し始めた。
「どうすれば評価が変わるだろうと考えたときに、美術展覧会っていう世界があることを知ったんです。優れた作品を目の前にしては、“自分って、こんなにレベルが低いのか”と、何度も打ちのめされました」
落選を繰り返し、自分の未熟さを思い知らされても、近藤さんは挑戦をやめなかった。窯元として器を作りながら、作家として表現を追求し続けた。その積み重ねはやがて実を結び、日展で2度の特選を受賞。「日本現代工芸美術展」ではNHK会長賞や現代工芸賞を受賞するなど、数々の権威ある賞に輝いた。近藤さんの作品は、大堀相馬焼が持つ可能性を示し、従来のイメージを大きく塗り替えていった。


震災を“物語”にしない覚悟
2011年3月11日。その日、これまで経験したことのない揺れに襲われた。
「ものすごい地鳴りが響いて、棚という棚から作品がガチャガチャと崩れ落ちていったんです。翌日には避難指示が出て、着の身着のままで故郷を離れました。その時は、すぐ戻れると思っていました。まさか10年以上も帰れないことになるなんて、思いもしなかったです」
家も、窯も、道具も、築き上げてきた設備も、すべてを大堀に残したまま、近藤さんはいわき市へ避難することになった。工房探しはゼロからだ。不動産屋を何軒も回り、焼き物ができる場所を探し続けた。そんななか、いわき市内で奇跡的に作陶できるモデルハウスに出会い、震災からわずか3ヶ月後にはいち早く作陶を再開させることができた。
当時、多くのメディアが「震災を乗り越えた大堀相馬焼」として取り上げようとしたが、近藤さんはそれを良しとしなかった。
「作品に物語はつけたくない」
作品を本気で作り続けて勝負してきたからこそ、“被災の物語”としてではなく、作品そのものの価値を見てほしい。そこには、一人の陶芸家としての揺るがない誇りがあった。2018年には、いわき市内に本格的な工房を設立した。
大堀へ戻ることを願い続けていたものの、当時はまだ帰還できる見通しは立っておらず、「もう戻れないのかもしれない」と、覚悟を決めての立ち上げだった。しかし、近藤さんのなかにはある違和感がずっとあったという。
「いわき市で大堀相馬焼を名乗って、それは本当に大堀相馬焼なのだろうか」
どれだけ技術を尽くしても、ここは“大堀”ではない。伝統とは何なのか。形なのか、絵柄なのか、それとも原料なのか。問い続けた末に、近藤さんが辿り着いた答えは「土地」だった。
「大堀の地で大堀相馬焼を作ることにこそ、意味があるんです」
そして、2023年3月31日。大堀地区を含む特定復興再生拠点区域の一部で避難指示が解除されたことを受け、近藤さんは、大堀の地で再び窯を開く決意を固めた。

大堀の地に、再び窯の火を灯す
2023年6月。近藤さんは、大堀の地に新たな「陶吉郎窯」を開いた。工房へ向かう道中には、あの日から時が止まったままかのような風景が今も残っている。放置された建物。解体され、更地になった広場。人の気配を失い、草木だけが伸び続ける景色……。そんな風景のなかに立つのが、新しい陶吉郎窯だ。
ギャラリーには、伝統的な大堀相馬焼から、会津塗りとコラボレーションした作品、酒好きの近藤さんが“究極においしく飲める”ことを追求した酒器までが並ぶ。日常使いの器から、思わず見入ってしまうような芸術作品まで。その幅広さは、近藤さんが歩んできた“窯元”と“作家”という2つの道を象徴しているようだ。


そして今、近藤さんが新たに力を注いでいるのが後継者の育成である。2025年から、全国から集まった多くの応募者のなかから、3人の女性を弟子として迎え入れた。1人で始めた大堀での挑戦。しかし今、その背中を追う後継者たちが、300年続く大堀相馬焼の火を次の時代へつなごうとしている。
近藤さんが見据えているのは、単に窯を復活させることではない。大堀という土地に、再び人が集まり、ものづくりが生まれる風景を取り戻すことだ。
「ここに人の流れができれば、飲食店だって宿泊施設だって必要になる。そうやって、またこの土地が動き始めるんです」
大堀相馬焼だけにとどまらず、若い作家たちが集い、ものづくりを通して人が出会い、新たな営みが生まれていく。近藤さんは、そんな未来を思い描いている。
「俺は言ったことはやるからね」
その言葉には、近藤さんの生き方そのものが表れていた。失われかけた産地に、再び火を灯す。近藤さんの挑戦は、まだ始まったばかりだ。




