



人生に、無駄な時間はあるのだろうか。
星を追い、音楽に親しみ、映像に惹かれ、やがて竹を編む人となった藤塚松星さん。遠回りに見えた日々の先で、人間国宝となった彼がいま見つめているのは、次の時代へ何を残すかという問いだった。

弟子はとらない。代わりに「動画」を残す
大磯にある藤塚松星さんの工房には、竹工芸の道具だけでなく、カメラやモニターがいくつも並んでいる。竹を割り、ひごを作り、染め、編み上げる。藤塚さんは自身の制作工程を、1993年頃からすべて自らの手で動画として記録し続けている。
作業のキリがいいところで立ち上がり、手元がもっともよく見えるアングルを探してカメラを動かし、また座って作業を再開する。何十時間にも及ぶ映像素材をパソコンに取り込み、自ら編集ソフトを操って40~50分程度の動画にまとめ上げる。人間国宝ともあろう人物が、なぜそこまでして「自分」を撮り続けるのか。
「弟子がいないからね。その代わりに僕の仕事を後世に伝えるために風景を残しておけば、いつかの時代に、誰かがそれを見てやってくれるかもしれない」
藤塚さんは現在、自身の弟子をとっていない。自分がかつて日展作家の師匠のもとで、メーカーからの大量の下請け仕事をこなして生活の基盤を築いたように、現代において弟子に安定した収入源となる仕事を与え、生活の面倒を見ることはきわめて困難だからだ。
だからこそ、記録を残す。己の編み出した「彩変化」などの独自の技法を映像というかたちに込めて、未来のまだ見ぬ後継者へと手渡すために。
しかし、それにしてもカメラワークから編集、ついには講演会用のスライド資料の作成まで、すべてをひとりでこなすその手際のよさは、我々が想像する竹工芸家の枠をはるかに超えている。その理由を尋ねると、藤塚さんは笑いながら意外な過去を明かしてくれた。
「実を言うとね、高校を卒業するときに、テレビカメラマンになろうかなって思ったことがあって。上野にあった電子専門学校に入学手続きをして、親父に入学金まで払ってもらったんですよ。でも間際になって、なんだか嫌になってやっぱりやめちゃいました」


道草が形作る、唯一無二の表現
テレビカメラマンになることを直前でやめ、レコード会社に就職し、毎日沢田研二のレコードを聴いて過ごした。その後、「星が見たい」という理由で天体望遠鏡メーカーのサービスセンターに転職し 、さらに「夜通し星を見るためには自営業だ」という私的かつ実利的な理由で、竹工芸の世界へと飛び込んだ。
一般的な職人や作家に抱くイメージである「幼い頃からこの道一筋」とは対極にある、あまりにも自由な回り道。しかし、藤塚さんは自らの人生に後悔していない。
「僕ね、この道一筋っていうのがダメなの。いろんな道草食ってるわけですよ。でもトータル的に見れば、全部それがいまの仕事に繋がっている」
音楽を愛した経験、天体観測で培った宇宙へのまなざし、そして幻に終わったテレビカメラマンへの興味。バラバラに見えた道草の数々が、竹工芸という器のなかで見事に融合し、「彩変化」で宇宙を表現し、自ら撮影・編集して未来へ伝えるという、唯一無二のスタイルを確立させたのだ。
ふと、藤塚さんは小学生の頃の記憶を思い出す。
小学校の卒業文集に幼少期に過ごした北海道の思い出を書き綴った。その最後に、思いついて書いた一文がある。
「無駄なようで無駄でない1日が過ぎていく」
なぜそんなことを書いたのか、自分でもよく覚えていない。だが、当時の先生はその一文をひどく褒めてくれたという。
「なんか人生って、やっぱり無駄なことがいっぱいあるようでいて、もしかしたら回り回って、最後はやっぱり繋がっていくのかもなって。終わりに近づいてみると、あのときのあのことも、このことも、いまのこれに繋がってるのかなって思ったりしますよね」

1年竹組──星を追う青年がたどり着いた「天職」
「星を見るため」という不純ともいえる動機で入った竹の世界。しかし半世紀の時を経て、藤塚さんのなかに不思議な運命の糸のようなものが浮かび上がってきている。
「北海道の小学校って、クラス名が梅とか松とか植物の名前でね。小学1年生のとき、竹組だったんですよ」
父親がハンカチに油性ペンで書いてくれた「1年竹組」の文字。遠い記憶の底にあったそのクラス名が、長い回り道を経て、現在の自分と重なり合う。
「そういえば1年竹組だったよなって考えると、もしかして偶然ではなく、この道に進むのは運命だったのかな……。やっぱりいま考えてみてもね、自分が仕事として他にやりたいものがあったかというと思い浮かばなくて、あぁ、やっぱりこの道に進んでよかったなって感じます」
世の中には、本当にやりたいことがあってもできなかった人がたくさんいる。最初から強い意志で目指した道ではなかったかもしれないが、結果として「自分がこれでよかったな」「これが天職だったな」と思えることは、この上ない幸せだと藤塚さんは語る。
約15年もの間、公募展に落ち続けても自分を見捨てることはなかった師匠・馬場松堂。彼が病床に伏し、この世を去る前、藤塚さんは感謝の言葉を伝えた。
「先生でよかったです。先生についたから、僕はここまで続けられたと思います」と言った後こう続けました。
「先生の仕事を後世に伝えます」と。すると先生は顔をくしゃくしゃにして涙を流してくれました。その時のことを思い出すと、私自身今でも涙が頬を伝います。そして先生が鬼籍に入って12年後に、先生の作品2点を東京国立近代美術館(現・国立工芸館)に納めることが出来ました。これで少しは恩返しができたかな?と思っているところです。
師から受け取ったバトンを握りしめ、数々のバッシングに耐えながら、竹工芸の新しい表現を切り拓いてきた藤塚さん。人間国宝となったいま、自らが残す映像という種が、いつか芽吹く日を静かに信じている。
「若い人たちは造形的に面白いものをいっぱい考えているでしょう。だから、いろいろな人に自由に作品を作ってもらいたいね」
夜の星を見るために竹を編み始めた青年だった藤塚さんは、半世紀の時を経て、自らが竹工芸界の燦然たる星となった。そして彼が後世に伝えようと残す無数の映像と作品群は、この先100年続く新たな伝統の道を照らす、確かな道標となるだろう。







