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【第2回】「やめておけ」と言った師匠──ある初対面の話 人間国宝・藤塚松星
2026.08.14
【第2回】「やめておけ」と言った師匠──ある初対面の話 人間国宝・藤塚松星

神奈川県大磯町

藤塚 松星
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藤塚 松星

重要無形文化財「竹工芸」保持者(人間国宝)の竹工芸家。レコード会社や光学機器メーカー勤務を経て23歳で竹工芸の道へ入り、独自技法「彩変化」を確立。新たな表現を切り拓くとともに、技術の継承と普及にも取り組んでいる。

竹工芸

大分県別府市や関東など各地で受け継がれてきた日本の伝統工芸で、竹を細く割った竹ひごを編み、籠や花器、盛籃などを制作する。古くから暮らしの道具として発展し、近代以降は高度な編組技術や造形性を生かした美術工芸としても発展してきた。

竹工芸家・藤塚松星は、日展作家・馬場松堂との出会いをきっかけに竹工芸の道へ進み、「食えないからやめろ」と告げられながらも弟子入りを決意した。公募展で約15年に及ぶ挑戦と落選を重ね、作家として生きる覚悟を培っていく姿が描かれる。
【第2回】「やめておけ」と言った師匠──ある初対面の話 人間国宝・藤塚松星

何も知らないまま、竹工芸の門を叩いた23歳の青年を、師は「食えないからやめたほうがいい」と迎えた。

拒絶にも聞こえるその言葉は、しかし藤塚松星さんにとって、長い作家人生の始まりでもあった。人間国宝へと続く道は、思いがけない初対面から静かに動き出す。

師弟での記念撮影
師弟での記念撮影

「食えないからやめろ」という洗礼

「星が見たい。そのために、自分で時間をコントロールできる自営業になろう」

そんなきわめて軽薄な動機から始まった、藤塚松星さんの竹工芸への道。しかし、当の本人は竹に触れたこともなければ、工芸品を見たこともない、まさにドのつく素人だった。誰に教わればいいのかもわからないなかで、工芸指導所で紹介されたのが、神奈川県川崎市を拠点とする日展作家、馬場松堂(ばばしょうどう)だった。

23歳の藤塚さんが緊張の面持ちで電話をかけ、その門を叩いたとき、待っていたのは予想だにしない「拒絶」だった。

「師匠は入ってくるなり、『食えないからやめたほうがいい』って言うわけですよ。いま思えば当然なんですけどね。やるんなら焼き物のほうがいい、紹介するからって」

日展の重鎮ともなれば、さぞ威厳のある、気難しい人物が現れるだろう。そう身構えていた藤塚さんを拍子抜けさせたのは、師匠のあまりに率直で、人間味あふれる姿だった。藤塚さんは直感した。「この人はいい人だ」と。

「出会いは第一印象と一緒で、その人の人柄がなんとなく伝わる。そのときに、この先生につきたいなと思ったんですね」

どうしてもやりたいと粘る若き藤塚さんに対し、松堂氏はひとつの比喩を投げかけた。 

「食堂に行ってね、そのウィンドウでサンプルを眺めてても、果たしてうまいかどうかはわかんないだろう。実際に食ってみなきゃわかんないだろうから、じゃあ食ってみろ。食ってみてまずかったら、やめりゃいいから」 

「竹の作品なんて見たこともない、何も知らない若造を、よく引き受けてくれたなと思いますよ」と藤塚さんは笑う。こうして、一風変わった「味見」の弟子入りが始まった。

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作業部屋に置かれた複数の竹
作業部屋に置かれた複数の竹

遠くの聖地より、近くの親。そして「職人と作家」の違い

そもそも藤塚さんは、なぜ馬場松堂という師を選んだのか。実はそこにも、彼らしい判断があった。

入門先を探すため小田原の工芸指導所を訪ねた際、担当者から示された選択肢は2つあった。大分県別府市にある竹工芸の訓練校か、川崎の日展作家か。

「僕は4人兄弟の末っ子だったんですけど、上がみんな出ていっちゃって。最後は親の面倒を見なきゃいけないから、九州の別府は遠いなと。それなら、とりあえず近くがいいなとね」

工芸の聖地・別府で研鑽を積むことよりも、親を想い、地元神奈川で生きる道を選んだ。この生活者としての視点こそが、後に藤塚さんの作品に宿る「親しみやすさ」や「地域への還元」という哲学に繋がっていく。 

しかし、弟子入りしたからといって、すぐに華やかな芸術の道が開けたわけではない。師匠の松堂は当時、日展作家としての活動の傍ら、東芝や三菱といった大手メーカーからの注文を受け、ランプシェードを月に何百個も量産する仕事をしていた。藤塚さんもまた、その過酷な「数を作る」修業に身を投じることとなった。 

そんな日々のなかで師匠は、「作家として生きる」ことのシビアな現実を藤塚さんに叩き込んだ。 

「『お前ね、10個作って1万円とね、1個作って1万円ね、だったらどっちがいいか』みたいなことを言うわけですよ。そりゃ1個1万円のほうがいい。そこが要するに、職人と作家の違いになってくる」 

自分の作品を適正な価格で売り、自立して生きていくためには、公募展で入選し、自らの「ネームバリュー」を高めなければならない。藤塚さんの公募展への長く苦しい挑戦は、生きていくための切実な戦いでもあった。

緋襷文花籃「縄文」 撮影:増尾峰明
緋襷文花籃「縄文」 撮影:増尾峰明

日展からの決別と、19年の暗闇

師匠が日展の作家であれば、弟子も当然、日展を目指す。藤塚さんも必死に造形的なオブジェに挑み、応募を続けたが、結果は惨憺たるものだった。

「日展を目指して7、8年、ずっと落っこってるわけですよ。そうしたら師匠がね、『お前は日展よりも伝統工芸が向いてる』って言うんです」

それは藤塚さんにとって、死刑宣告にも等しい衝撃だった。なぜなら師匠自身、日頃から「なんでみんな丸い籠ばっかり編んでるのか。伝統工芸なんか面白くもなんともない」と痛烈に批判し、日展の造形美こそを尊んでいたからだ。

「『俺、日展ダメなのか、入れねえのか』って。えらいショックでしたよ」

失意のなかで伝統工芸展に転向したが、そこからが真の試練だった。伝統工芸の世界でも、出す作品、出す作品、ことごとく落選し続ける。23歳で入門してから、一度も中央の公募展で入選することなく、30代が過ぎていった。

「伝統工芸でも入らない。作家として生きていけないんじゃないかと、だんだん思ってきたわけですよ。23歳から挑戦して、40過ぎまで、全然入らないわけですから」

保守的な「伝統工芸」と、前衛的な「日展」。藤塚さんが生み出す作品は、伝統的な技術を使いながらも造形的な要素が強く、常にその2つの境界線を行ったり来たりするようなものだった。

周囲が名を成していくなか、ひとり暗闇を歩き続ける日々。その彼を支えたのは、かつて師匠が何気なく放った、ある言葉だった。 

「どんな名人上手もね、最初はみんな素人なんだから」 

その言葉を噛み締め、「これでダメならもうやめよう」と背水の陣で挑んだ作品がついに入選を果たしたのは、入門から実に19年が経った1991年のことだった。藤塚松星、42歳。人間国宝へと続く細く険しい道に、ようやく一筋の光が差し込んだ瞬間だった。

(第3回「表現者でありたい──創ることの『生みの苦しみ』」へ続く)

#人間国宝#神奈川#伝統工芸#竹工芸#彩変化#歴史#日本文化#技術
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