



何も知らないまま、竹工芸の門を叩いた23歳の青年を、師は「食えないからやめたほうがいい」と迎えた。
拒絶にも聞こえるその言葉は、しかし藤塚松星さんにとって、長い作家人生の始まりでもあった。人間国宝へと続く道は、思いがけない初対面から静かに動き出す。

「食えないからやめろ」という洗礼
「星が見たい。そのために、自分で時間をコントロールできる自営業になろう」
そんなきわめて軽薄な動機から始まった、藤塚松星さんの竹工芸への道。しかし、当の本人は竹に触れたこともなければ、工芸品を見たこともない、まさにドのつく素人だった。誰に教わればいいのかもわからないなかで、工芸指導所で紹介されたのが、神奈川県川崎市を拠点とする日展作家、馬場松堂(ばばしょうどう)だった。
23歳の藤塚さんが緊張の面持ちで電話をかけ、その門を叩いたとき、待っていたのは予想だにしない「拒絶」だった。
「師匠は入ってくるなり、『食えないからやめたほうがいい』って言うわけですよ。いま思えば当然なんですけどね。やるんなら焼き物のほうがいい、紹介するからって」
日展の重鎮ともなれば、さぞ威厳のある、気難しい人物が現れるだろう。そう身構えていた藤塚さんを拍子抜けさせたのは、師匠のあまりに率直で、人間味あふれる姿だった。藤塚さんは直感した。「この人はいい人だ」と。
「出会いは第一印象と一緒で、その人の人柄がなんとなく伝わる。そのときに、この先生につきたいなと思ったんですね」
どうしてもやりたいと粘る若き藤塚さんに対し、松堂氏はひとつの比喩を投げかけた。
「食堂に行ってね、そのウィンドウでサンプルを眺めてても、果たしてうまいかどうかはわかんないだろう。実際に食ってみなきゃわかんないだろうから、じゃあ食ってみろ。食ってみてまずかったら、やめりゃいいから」
「竹の作品なんて見たこともない、何も知らない若造を、よく引き受けてくれたなと思いますよ」と藤塚さんは笑う。こうして、一風変わった「味見」の弟子入りが始まった。

遠くの聖地より、近くの親。そして「職人と作家」の違い
そもそも藤塚さんは、なぜ馬場松堂という師を選んだのか。実はそこにも、彼らしい判断があった。
入門先を探すため小田原の工芸指導所を訪ねた際、担当者から示された選択肢は2つあった。大分県別府市にある竹工芸の訓練校か、川崎の日展作家か。
「僕は4人兄弟の末っ子だったんですけど、上がみんな出ていっちゃって。最後は親の面倒を見なきゃいけないから、九州の別府は遠いなと。それなら、とりあえず近くがいいなとね」
工芸の聖地・別府で研鑽を積むことよりも、親を想い、地元神奈川で生きる道を選んだ。この生活者としての視点こそが、後に藤塚さんの作品に宿る「親しみやすさ」や「地域への還元」という哲学に繋がっていく。
しかし、弟子入りしたからといって、すぐに華やかな芸術の道が開けたわけではない。師匠の松堂は当時、日展作家としての活動の傍ら、東芝や三菱といった大手メーカーからの注文を受け、ランプシェードを月に何百個も量産する仕事をしていた。藤塚さんもまた、その過酷な「数を作る」修業に身を投じることとなった。
そんな日々のなかで師匠は、「作家として生きる」ことのシビアな現実を藤塚さんに叩き込んだ。
「『お前ね、10個作って1万円とね、1個作って1万円ね、だったらどっちがいいか』みたいなことを言うわけですよ。そりゃ1個1万円のほうがいい。そこが要するに、職人と作家の違いになってくる」
自分の作品を適正な価格で売り、自立して生きていくためには、公募展で入選し、自らの「ネームバリュー」を高めなければならない。藤塚さんの公募展への長く苦しい挑戦は、生きていくための切実な戦いでもあった。
日展からの決別と、19年の暗闇
師匠が日展の作家であれば、弟子も当然、日展を目指す。藤塚さんも必死に造形的なオブジェに挑み、応募を続けたが、結果は惨憺たるものだった。
「日展を目指して7、8年、ずっと落っこってるわけですよ。そうしたら師匠がね、『お前は日展よりも伝統工芸が向いてる』って言うんです」
それは藤塚さんにとって、死刑宣告にも等しい衝撃だった。なぜなら師匠自身、日頃から「なんでみんな丸い籠ばっかり編んでるのか。伝統工芸なんか面白くもなんともない」と痛烈に批判し、日展の造形美こそを尊んでいたからだ。
「『俺、日展ダメなのか、入れねえのか』って。えらいショックでしたよ」
失意のなかで伝統工芸展に転向したが、そこからが真の試練だった。伝統工芸の世界でも、出す作品、出す作品、ことごとく落選し続ける。23歳で入門してから、一度も中央の公募展で入選することなく、30代が過ぎていった。
「伝統工芸でも入らない。作家として生きていけないんじゃないかと、だんだん思ってきたわけですよ。23歳から挑戦して、40過ぎまで、全然入らないわけですから」
保守的な「伝統工芸」と、前衛的な「日展」。藤塚さんが生み出す作品は、伝統的な技術を使いながらも造形的な要素が強く、常にその2つの境界線を行ったり来たりするようなものだった。
周囲が名を成していくなか、ひとり暗闇を歩き続ける日々。その彼を支えたのは、かつて師匠が何気なく放った、ある言葉だった。
「どんな名人上手もね、最初はみんな素人なんだから」
その言葉を噛み締め、「これでダメならもうやめよう」と背水の陣で挑んだ作品がついに入選を果たしたのは、入門から実に19年が経った1991年のことだった。藤塚松星、42歳。人間国宝へと続く細く険しい道に、ようやく一筋の光が差し込んだ瞬間だった。
(第3回「表現者でありたい──創ることの『生みの苦しみ』」へ続く)







