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東京から秩父へ、4児を育てながら職人の妻に:新啓織物での私の役割
2026.01.16
東京から秩父へ、4児を育てながら職人の妻に:新啓織物での私の役割

新井 園恵

新啓織物で秩父銘仙の製作や広報に携わる。 テキスタイルデザインを学び、織物商社勤務や専業主婦を経て、現在は秩父銘仙の製作と広報に関わる。

秩父銘仙

経糸に仮織りした緯糸をほぐしながら、型染めした糸を再度織り上げる「ほぐし捺染」によって制作される絹織物。絹糸(養蚕由来の繭)を素材とし、裏表のない大胆な模様表現と奥行きのある柄が特徴。主に着物として用いられてきたが、近年はハンカチなど日用品にも展開されている。

東京での生活から一転、夫が家業を継ぐため家族で秩父へ移住。4人の子育てと伝統工芸の世界に向き合いながら、専業主婦から職人の妻へと変化していく歩みを描く。
東京から秩父へ、4児を育てながら職人の妻に:新啓織物での私の役割
「ここまでくるのにいろいろなことがありましたね」
秩父銘仙の織元「新啓織物」。その工場で、2代目の夫・教央さんを支える妻・園恵さんは微笑みながらそう語る。
東京での生活から一転、夫が家業を継ぐため家族そろって秩父へ移住。4人の子育て、慣れない土地での生活、そして伝統工芸の世界。専業主婦から職人の妻となり、ときには悩みながらも、自分の生き方を見つけてきた彼女が歩んだ道のりとは──。

専業主婦から一転、秩父銘仙の職人の妻へ

洋裁やミシンなど、もともと手仕事が大好きだったという園恵さん。テキスタイルデザインを学んだ後、織物商社でオーダーカーテンの企画部署で働いていた。

「カーテンのオーダーを取る見本となるブックを製作したり、機屋さんとやりとりしながら『こういう生地はできますか?』と相談したり。ときには、展示会や百貨店売り場のディスプレイの手伝いなど、生地に関わるお仕事を経験させてもらいました」

そこで出会ったのが、後に夫となる2歳年下のデザイナー、教央さんだ。初めて会ったときの印象は、真面目な人だったという。

「デザイン室で働いていたので、トレーナーやバティック(ろうけつ染め)のシャツなどラフな格好にもかかわらず、とっても中身のきちんとした人でしたね。ご両親が会社に挨拶に来られたこともあり、しっかりした家で育てられた人だなと好印象でした。彼を見る目がハートだったなんて周りの人に言われるほど、私が惹かれていたんです」

その後、園恵さんの転職を経て、2人は結婚。仕事を辞めて家庭に入り、4人の子どもに恵まれて、家事に育児に充実した日々を送っていた。

園恵さんが38歳のときに、転機が訪れる。教央さんが家業である秩父銘仙の織元を継いで、職人になると言い出したのだ。

「いつか家業を継ぐ日が来るかもしれないと覚悟を決めていたんです。だから迷わず『わかった』と返事をしました」

大きく生活が変わることに不安はなかったのかと問うと、「まったくありませんでした」と園恵さんは答える。

「今考えると本当に甘かったのですが、なんとかなると信じていました。『東京にいた方がいい』とお義父さんにも止められたのですが、『大丈夫です!』と秩父にやってきました」

仕事に家事にと慌ただしい日々

子どもが多いので同居はせず、工場の近くに家を購入して移住した園恵さん一家。想像していた以上に、それまでの暮らしからは180度変わった毎日が待っていた。

「東京では、家から子どもたちを送り出して、帰ってくるのを家で待っている生活でしたが、秩父では朝から晩まで工場にいます。家事も全然できない。しっちゃかめっちゃかな日々でした」

教央さんは、秩父銘仙の技術を身につけるために、朝から晩まで修業に専念していた。園恵さんは仕事をしながら、家事に育児と目の回る日々が続いたという。

「最初は何をしていいかもわからなくて。家業だから、分担も決まっておらず、指示があるわけでもなかったんですね。だからどうしたら役に立つのかなと様子をうかがいながら、『お昼の支度しますね』とか『私も横で機織りをやろうかな、教えてください』と、自分のやるべき仕事を見いだしていきました」

仕事をしながら、昼ごはんや3時のお茶などの準備もテキパキと動く。家では、子どものお弁当やごはんを作り、洗濯機も多いときには3度以上回すことも。夕方には子どものお迎えに行き、みんなが寝静まった後に、パソコンで作業を行っていた。

「忙しかったので、気持ちがずっと急いていたんですね。お茶休みの最中も『そんな時間があるなら家に戻って洗濯物を取り入れたい』なんて焦っていて、ゆっくりお茶を飲むこともできない。寝る間も惜しんで仕事していた時期が10年ぐらいあったかな。本当に大変でした」

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「やらなきゃいけない」から「やりたい」に変化

忙しく追われるような気持ちになり辛かったのは、「どこかに仕事をやらされている気持ちがあったのかもしれませんね」と、園恵さんは当時を思い出す。

「目の前の仕事にやりがいを見いだすことができなかったんです。『これは私の仕事じゃない』という気持ちになってしまって。折り合いをつけることが大変な時期もありました」

そんな園恵さんを救ったのは、自分の時間。茶道のお稽古だ。秩父銘仙を着て売り場に立つために着付けに慣れようとはじめた茶道は、心を癒やす大切な時間になっていった。

「月に2度、家族が協力して送り出してくれました。どんなに忙しくても、自分の時間を一つ確保することで、自らをなだめることができる。生活のエッセンスとして大事な時間だったんです」

お茶のお稽古のおかげで着物に慣れ、お客さんとコミュニケーションをとる機会は手ごたえのある時間にもなった。さらに徐々に先代から世代交代するにつれ、少しずつ仕事にやりがいも見いだせるようになったという。

「やってみたいという想いを少しずつ叶えることができるようになったんです。取り組みの一つにお客様を工場に招待するオープンデーがあります。最初は見学だけでしたけど、そのうち『お茶菓子も用意しなくちゃ』と、お漬物や食べ物も出していたら楽しくなっちゃって。お客様も喜んでくださるイベントになりました」

経験しながら、自分の「器」を大きくしたい

園恵さんは、新啓織物の広報担当として、SNSやホームページなどの発信を一手に担っている。さらに、展示会やフェアの際には、秩父銘仙を着て自ら売り場にも立つ。デザインや、最近では型染めのための色糊の配合という職人仕事も手がけるようになった。

「糊の硬さは気温で毎日異なるので、経験を積むほど加減がわかっていきます。それを体得できるのがものづくりの醍醐味ですね。自分も秩父銘仙の技術を受け継ぐ一人なのだという自覚にもつながっています」

今もやることは山積みだが、昔のように、焦ったりすることはなくなったという。

「よく日にち薬(ひにちぐすり)と言うように、子育てと仕事のバランスも、自分の役割を見いだすことも、焦らなくて良かったのにねと、今になって思います。若い頃の自分に、ゆっくりで大丈夫だよと言ってあげたいですね」

職人の妻として生きていくことに、今は喜びを感じていると語ってくれた園恵さん。

「東京にいたら知らなかった暮らしや、夫の人生の広がりを感じられています。子どもも、人数が増えるたびに小さい私の器が少しずつ大きくなり、愛情も増していきました。次男も工場を手伝ってくれています。彼がやりがいを持って仕事を楽しめるよう、良い形でバトンを渡していきたいですね」

ときには迷い、模索しながらも、置かれた環境でしなやかに自分の役割を見いだしていった園恵さん。その想いは、色鮮やかな秩父銘仙と共に、次の世代へと受け継がれていく。

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Text by 荒田 詩乃

#Artisan#職人#埼玉#秩父銘仙#伝統#歴史#日本文化#技術#伝統工芸#伝統のそばで暮らす
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