


父の後ろ姿
前田さんの工房は、生まれた土地である鳥取市河原町にある。窯元の名前である「やなせ窯」は、工房の背にある梁瀬山が由来となっている。冬になると辺り一面が雪に囲まれるというこの地域の自然美が、前田さんが生み出す白磁の着想源になっていることは容易に想像できる。
豊かな自然に囲まれたこの町で、前田さんはどのような幼少期を送ってきたのだろうか。
「僕が小学校3年生くらいの頃でしたかね。小学校の教員だった父が、趣味で木版画を始めたんですよ。家族で夕食を食べた後に、仕事場に籠もって、ひとりで彫刻刀で彫ったり試し刷りをしたりしていました。版画づくりに没頭する父の後ろ姿を見て、すごく楽しそうだなと子どもながらに思ったものです。
普通なら仕事をして帰ってきた後ですから、クタクタなはずなんですけどね。それなのに、なぜか楽しそうにしている姿が印象的で、僕もそういうことができたらいいなと子ども心に思っていました。これが美術に触れる最初の経験だったと思います」
いわゆるサラリーマン家庭の何気ない日常の一コマが、前田さんの心に響いた瞬間だった。作品の芸術性やその評価ではなく、純粋に作品を作ることへの憧れが根底にあった。
子ども時代の図工・美術との関わり
父親の姿が印象的だったのか、前田さんは小学校の授業で図画工作が一番好きな時間になっていた。好きこそものの上手なれとはよく言ったもので、授業中に制作した作品が入賞するようになり、賞状や副賞のバッジなどをもらえるようになったという。
その後、中学に入った前田さんは運動部に入部し、少しばかり美術とは距離を取る生活が続いた。だが、幼少期に根付いた美術の芽はすくすく育っており、高校に入るとその思いがついに花開くことになる。
「高校生になって、あらためて美術が好きなんだなと思うようになりました。小学校でやった図画工作のようなものづくりでなく、本格的にデッサンや油絵を描き始めました。
美術館にも足を運ぶようになりましたね。日本画だけでなく、ゴッホやセザンヌ、マティスといった、世界の有名な画家の作品も見ていました」

美大を目指したきっかけ
自分の関心のおもむくままに美術を広い目で見てきた前田さんに、ひとつの転機が訪れた。それが、高校の美術の先生のアドバイスだった。
「先生が美術大学に行くように勧めてくれたんですよ。でも、地方の高校の美術部から美術大学に行くのはハードルがかなり高いです。実技試験もあるので、すぐには入学できないだろうと思いつつ、1、2年浪人して入れればいいかなと思うようになりました」
高校生になれば、将来どのような職に就きたいのかを考え始める時期でもある。先のことはわからないという人もいれば、これになりたいと強く望む職を考えている人もいる。前田さんは後者寄りで、漠然とではあるが美術に関われたらいいなという思いがあったと振り返る。
「これだ! というものはまだなかったのですが、好きな美術に何らかの形で携われたらいいなとは考えていました。ただその頃は、今のように作家になろうとまでは意識していませんでした」
とはいえ、就職はまだ先のこと。まずは大学受験の壁を突破しなければならなかった。
大阪芸術大学で工芸学科に進み、陶芸を専攻するまでの経緯
浪人をしてでも美大に行こうと考えていた前田さんだったが、予想外に大学にはすんなり入ることができた。
「デザインや工芸が好きでしたので、それぞれの専攻を2、3校受けてみたら、大阪芸術大学の工芸学科から合格通知をいただきました。1校でも受かってしまうと、浪人するのは嫌になってしまい入学を決めてしまいました」
当時を振り返る前田さんは、まだまだ自分のやりたいことがはっきりしていなかったと話す。美術に携わりたいという思いは強かったが、大学が決まれば次はそこで何を専攻するかを決めなければならなかった。
「工芸学科には、陶芸と染織と金工があって、そこから2つを選ぶというものでした。僕は陶芸と染織を選んだのですが、最終的に陶芸を選んだのは、興味があり体力もあるのでやれるだろうという単純な気持ちからでした。その決断が人生を左右することになるとは、夢にも思いませんでした」
父の姿を見て、芸術への興味を持った前田さんは、こうして本格的に陶芸の世界に入っていく。図画工作が好きだった幼少期の思いが、ここまで前田さんを連れてきたのだろう。そしてここから前田さんは、生業となる白磁との出会いを果たすことになる。
(第2回は、白磁との出会い、そこに身を捧げる覚悟を決めた前田さんの姿をお送りする)







