



思いがけない大島紬との出会い
はじめ商事は1982年に創業。祖父が製造を担い、父が全国を巡って販路を開拓することで、奄美の織元と都市部の呉服店をつなぐ役割を果たしてきた。もともとは「問屋」としての機能を担い、百貨店の催事や物産展で大島紬を広めることに注力してきたのである。
その道筋は一見盤石のように見えたが、家業を継ぐ次の世代は必ずしも同じ歩みを志してはいなかった。理系大学に進学し、映像や音楽の研究に没頭していた元さんにとって、着物は遠い存在であり、家業を担う未来を描いてはいなかった。しかし、奄美で過ごした夏休みに偶然織りの現場を訪ねたことが、大きな転機となった。
そこでは、若い研修生たちが自由な発想で柄を織り込んでいた。伝統を守りながらも現代的な表現を模索するその姿に触れ、大島紬を「古いもの」ではなく「新しい創造の場」として捉えるようになったのである。これを機に工芸の世界へと歩みを進め、やがて家業を継ぐ決断に至った。
世界でもっとも緻密な織物・大島紬の奥深さ
大島紬は、奈良時代の献上品にその記録が見られるほど古い歴史を持つ。明治期には締機(しめばた)の開発によって技術革新が進み、現在知られる精緻な絣模様が確立した。
特徴は「先染め絣」による緻密な文様である。糸を一本一本染め分け、それを組み合わせて織り進めることで、点と点が幾何学的に連なり、緻密な模様が現れる。完成した布は、遠目には無地に見えながらも、近づけば驚くほど細やかな意匠が浮かび上がる。
工程は大きく3つに分かれる。図案を糸に写し込む「締機」、自然由来の染料で染める「泥染め」、そして糸を織り合わせる「機織り」。いずれも一つの失敗が全体を台無しにしかねない緊張感に満ちたもので、完成までには1年近い時間を要する。
泥染めは特に自然条件に左右される。鉄分を含む泥と草木のタンニンが反応して独特の黒色を生み出すが、雨が多ければ鉄分は薄まり、色が沈まない。太陽光の強さや湿度までもが発色を左右する。こうした不確実な要素と向き合いながら、職人たちは自然と共に布を育ててきたのである。


革新から生まれた「奄美布」
伝統を受け継ぎながらも、新たな布づくりへの挑戦は常に模索されてきた。その象徴が「奄美布」である。
これは、不要になった絹の着物を細かく裁断し、大島紬の縦糸に織り込むことで再生する布である。従来の裂き織りは厚みのある質感が一般的だが、奄美布は5ミリ幅に裂いた布を用いるため、驚くほど薄く軽やかに仕上がる。見慣れた裂き織りとは異なる繊細さを持ち、柔らかくしなやかな手触りが特徴だ。
誕生から十数年しか経っていない奄美布は、まだ伝統工芸と呼ばれるには至らない。しかし「100年後に伝統工芸として認められる布に育てたい」という思いが込められ、未来の伝統を築く試みとして歩みを進めている。

異業種とのコラボで広がる可能性
奄美布や大島紬の技術は、着物の世界を超え、多様な分野へと広がっている。家具メーカーからはソファの張地やラグの依頼、ホテルからは壁紙や内装素材の相談が寄せられる。さらにスポーツチームとの協業では、不要になったユニフォームを裂き織りにして新たなグッズへと再生する取り組みも実現した。
そして2022年には、大島紬がイタリアのフェラーリに一点もののシート素材として採用され、世界的な注目を集めた。伝統工芸の技が異国の最先端デザインと結びついた瞬間であり、その可能性を強く印象づける事例となった。
こうした協業は、単なる素材提供にとどまらない。依頼主の要望に合わせ、縦糸や染料を一から調整し、試作を重ねる必要がある。伝統的な織機と手技を用いながらも、まったく異なる素材を扱うことで、新たな布地が生まれるのである。
「守るべきは技術と道具であり、形そのものではない」という姿勢が、こうした取り組みを支えている。伝統を「固定されたもの」とせず、「生かすもの」と捉えることで、現代の多様な需要に応え続けているのである。

後継者不足と未来への展望
しかし産地全体を見渡すと、課題は山積している。後継者不足は長年指摘されており、若い世代の定着は困難を極める。分業を支える職人の数は減少し、技術の継承にも影を落としている。販路も都市部の問屋に依存する構造が続き、地域単独での自立は難しいのが現状だ。
そのなかで掲げられるのが「メイドイン奄美のテキスタイルメーカー」という構想である。奄美布をはじめとする新たな布づくりを軸に、奄美発のブランドとして大島紬を確立し、国内外へ発信する。さらに、職人を育て、技術を次世代へと継承することも大きな使命と捉えている。
「大島紬は、ものづくりの根幹。枠組みがあるからこそ、新しい挑戦ができる。守るべきは形ではなく、技術と環境を残すこと」
その言葉には、1300年の歴史を背負う覚悟と未来を切り拓く意志が込められている。








