


黒が黒くなるための名古屋独自の技術
名古屋城の西、ここは昔から職人が集う町だ。山勝染工もそんな町の雰囲気を作り出している会社の一つ。柔和な笑顔で案内してくれたのは社長の中村剛大さん。敷地奥にある染物工場に足を踏み入れると、染浴槽の湯気で外気より一段高くなった湿度が、もわっと私の体を包んできた。
「着物の場合は90度で約1時間、洋服の場合は60〜70度の温度で約2時間半、5分に1回、手作業で生地を上下させながら染めています」
紋当金網付け技法とは、紋の形をした紋型紙を当てて、金網で生地を挟み縫い付けることによって染料が入り込むのを防ぐ技術。紋型紙は染液に浸ると膨張するため、より生地を圧迫し、紋の部分への染料の染み込みが防がれる。白く残った紋の形に、紋章上絵師が家紋を描き入れて完成だ。
名古屋黒紋付染の特色である黒色は、紅下染めという技法を用いる。生地の5%程度の量にあたる紅の染料を、熱湯に溶かして染液を作り染める。黒染色のみだと、深みのある黒が十分に出ないためである。紅下染めをした後は、生地を通常より濃い濃度の黒で染めていく。その後、染色後に色を止めるため生地を水に一昼夜つけて、色褪せにくい黒を作り出す。
「アパレル業界の人に言われたんです。『黒が黒いよね』と。ここがすごいということを、私たち自身はあまり気づいていませんでした」
黒が黒い。これは山勝染工が、これまで携わってきた以外の分野へ足を踏み入れるきっかけとなった言葉だ。
加工業ではなくメーカーになりたかった
山勝染工は現在、中村剛大さんが社長を務め、弟の友亮さんが染師としての4代目を継いでいる。会社のマネジメントを剛大さん、専門職として友亮さんら職人たちが担う両輪だ。しかし剛大さんは、当初からずっと山勝染工で働いていたわけではない。以前は新卒で人材派遣会社に就職。その後に一度は家業を手伝いに戻ったが、再び家を出た。
「社内に私がはまるピースがなかったというか。当時の私は30歳前。まだ親父も元気でしたし、自分のやりたいことをやらせてはもらえず、投げ出してしまいました。若造だったんです。そして以前から繋がりのあった人材派遣会社に誘ってもらい、そこで管理職として働いていました」
しかし2012年に運命は再び剛大さんを家に引き戻す。父親がガンを患い62歳で亡くなったからだ。伝統産業はただでさえ斜陽。経営も一筋縄ではいかない。職人として他所で修業をし、戻って家業を継いでいた友亮さんからも、一緒にやってほしいと誘われた。
「山勝染工が今後残っていくためには、どうしようかと考えました。今までは染物屋としての加工業。呉服屋から預かった白い反物を染めて、その加工賃をいただく商売です。その加工業から、自分たちでオリジナル商品を持っているメーカーになろうと考えました」
新しい分野への本格的な挑戦。しかし懸念もあった。染物屋だった山勝染工が和服を売り始めれば、今までの顧客である呉服屋と商売がかぶる。
「遠慮はしましたよね。そのため山勝染工とは別に『中村商店』というブランドを立ち上げて、Tシャツなどの洋服を扱うことにしました。色落ちした洋服を染め替えるカラーリングも始めました。SDGsという言葉で持続可能な開発が叫ばれ始めた前の時期です」
試行錯誤を繰り返しながらも、需要は次第に増えていく。


いついかなる時もやらないといけない
山勝染工にとってアパレルは門外漢。それを剛大さんが、持ち前の営業力と生まれた縁で繋ぐ。
立ち上げて最初に受けた大きな仕事は国内大手のアパレル。3年後には世界的な日本ブランドと仕事をする機会に恵まれた。あわせて日本の大手企業のCM衣装を担当。今後は世界的ブランドのコレクションの一端を担う予定もある。これらは自社ブランドのものではないが、商品を見せながら「こういうことができます」と訴えて仕事を勝ち取った。いずれも、同じような黒染めや特殊な染めができるところがなかった。
「ファッション業界にいなかった人間がファッションをやるんです。数年前まで人材派遣業にいた人が、ファッション業のディレクターさんと話す。彼らは20年、30年と服の世界にいる人。全てが難しかったですし、勉強でした」
今回筆者が取材に訪れた2月は、東京ガールズコレクション実行委員会が主催する「TGC in あいち・なごや 2026」が開かれた時期だった。そこでは中村商店の服も披露されていた。
本来、染物屋は黒子。しかし、TGCでは多くの観客の注目を浴びながら、自社のオリジナル商品がランウェイを歩くきらびやかな世界。仕事のやりがいを聞いてみると意外な答えが返ってきた。
「よく『仕事は楽しいか?』と聞かれるのですが、じつは苦しいんです。何とかして伝統産業を知ってもらいたいの一心で。とにかく会社を残すための使命感でしかないんです。だからモチベーションが上がらなくても、やらないといけない。従業員を食わせないといけない。収益が増えれば、これで一つ柱ができたという安心感になります。冷めていると言われますけどね」
染物工場の横にあるオフィスで、剛大さんは今までの実績を見せながら苦笑した。

伝統産業全体を何とかしたい
染物一本から多角化を図った剛大さんだが、「そろそろ次に行こう」とも考えているという。理由は、ある程度会社が軌道に乗ってきたということと、次は名古屋黒紋付染を超えて、もっと広い範囲で伝統工芸に関わっていきたいと思っているからだ。
今、日本の伝統工芸従事者の平均年齢は70歳前後。10年後には、伝統工芸を支える人口は一気に減る。その将来を大きく危惧しているという。
「私たち(染物屋)はアウトプットできるし、まだいいんです。そして、うちは祖父が会社組織にしたため、私がこう喋っていても仕事は回る。でも個人経営の人たちは、喋っていたら仕事が止まるんです。伝統工芸従事者のほとんどが個人経営。日々の仕事があるため、新しいことへの挑戦や発信も難しい。名古屋黒紋付染の場合だと、紋を描く人たちは、将来への不安はもっと切実です。だから次のステップとして、そこをどうにかしたいと思っています」
具体的には何を対策すべきか。尋ねたところ、「答えはまだ見つかっていない」と、あっけらかんと笑った。
「挑戦をいろいろとしているところです。そして、試してきたことについてのアーカイブを今作っています。私たちがやってきたことを他の人たちが真似できるように。答えが分かっていれば、そこに行けばいいし、それが手っ取り早い。みんながみんな挑戦しやすくなる。その土壌を作るのが私のライフワークです」


Text by 守隨 亨延










