



琉球貿易が育んだ独自の織物文化
沖縄の織物の歴史を紐解くには、14世紀から15世紀、日本で言えば鎌倉時代から室町時代にかけての「大交易時代」まで遡る必要がある。当時、沖縄本島は北山、中山、南山の3つの勢力に分かれており、それぞれにおいて有力な武将たちが東南アジアや中国、日本本土と活発な貿易を行っていた。
この交易の過程で、インドから東南アジアへ伝わっていた「絣(かすり)」の技術が沖縄へともたらされる。船乗りたちは風待ちのために数ヶ月間現地に滞在するなかで、現地の織物技術や道具を持ち帰り、沖縄の人々に伝えたのである。
三山はその後、中山によって統一され、中山は尚家として首里城に王府を定めた。 その後、首里王府は中国と正式な交易を始め、中国からは珍しい花織や花倉織、道屯織な どの中国紋織物が、南方諸国からは絣や南方花織の技術が導入され、首里織の基礎が築か れた。
やがて、首里王府は服飾制度や身分制度を設け、交易を通じて導入された技術や意匠を体系化していった。中国伝来の技術 や、鮮やかな色柄の絣は王族、士族階級に限定され「王府のもの」とし、平民(百姓)の着用を認めないこととした。
王府の服飾制度のもとで発展したこれらの織物は、1972年の沖縄の本土復帰に伴い、「首里織」として命名された。
首里織には、花倉織(はなくらおり)、道屯織(どうとんおり)、手縞(てじま)など複数の技法が含まれる。これらの名称や技法は、首里織の歴史とともに受け継がれ、その価値と品質が大切に守られている。

戦火を越え、繋いだバトン
首里織の現代への継承を語る上で、一夫さんの母であり、人間国宝である宮平初子さんの功績は計り知れない。明治維新による琉球処分の後、首里城が政治的機能を失うと、職を失った士族たちは離散し、王府の庇護下にあった織物文化も存続の危機に瀕した。明治から大正にかけて、志ある人々が細々と技術を繋いできたが、その最後のバトンを受け取った世代の一人が初子さんであったという。
昭和10年代、民藝運動の父と呼ばれる柳宗悦らが沖縄の文化調査に訪れた際、当時女子工芸学校を卒業したばかりの初子さんは案内役を務めた。柳一行は沖縄の織物を大量に買い付け、東京の日本民藝館に収蔵した。初子さんもまた、校長の推薦により柳一行と東京へ赴き、日本民藝館で2年間、収集品の整理と織物の研究に従事することとなる。
その後、沖縄へ戻り母校である女子工芸学校で教職に就いた初子さんだが、太平洋戦争の激化に伴い疎開を余儀なくされる。写真だけの見合いで結婚を決め、夫が駐屯していた山口県、そして大分県へと移り、大分県で長男の一夫さんを出産した。
戦後、沖縄に戻った一家が目にしたのは、焦土と化した故郷だった。織物の道具はおろか、参考となる古い着物さえも焼失し、初子さんは琉球政府の農業試験場に採用され、織物の復興と指導を任されることになる。手本となる現物がないなか、彼女が頼りにしたのは、戦前に柳宗悦らが買付し、日本民藝館に収蔵されていた沖縄の織物だった。彼女は再び東京へ通い、それらを詳細に分析・研究することで、花倉織や道屯織といった高度な技法を一つひとつ現代に蘇らせたのである。

脱サラし、37歳で挑んだ織の道
一夫さんは、当初から織物の道を志していたわけではない。東京でサラリーマン生活を送り、30代前半で沖縄に帰郷した際は、司法書士事務所を営む父の手伝いをしながら司法試験の勉強をしていた。しかし、書類作成に追われる日々に違和感を覚え、ものづくりへの渇望が芽生え始めた頃、母・初子さんからの織物の道への強い勧めを受け、37歳で転身することを決めた。
当時、工房には母と共に織物を探求していた妹の吟子がおり、彼女は沖縄県立藝術大学で教授を務めるほどの実力者だった。一夫さんは母の宮平工房で一年間研修の後、当時薬剤師で薬局を経営していた妻早苗さんとともに織物工房を立ち上げた。
一夫さんと早苗さんは母の工房から借りた端切れを基に、隣に同じ糸を並べ、見よう見まねで織機を動かした。道具の作り方から織りの構造まで、すべて現物を分解・観察することで理解していった。ある時、完成した花倉織を母に見せると、「誰に習ったのか」と驚愕されたという。誰も教えていないはずの複雑な技法を、二人は観察と試行錯誤だけで再現してみせたのである。

淡い色への挑戦が革新を生む
技術の習得と並行して、一夫さんと早苗さんは首里織のデザインにおける大きな革新を試みた。それは「色彩」の変革である。
かつての沖縄の織物は、南国の強い日差しに負けない、赤や黄色、藍色といった原色に近い鮮やかな色使いが特徴であった。しかし、若い頃に東京で15年近くの生活を送った一夫さんと早苗さんにとって、その色彩感覚は必ずしも馴染むものではなかった。都会的な洗練さと、現代の生活空間に調和する色彩を求めた彼らは、伝統的な原色ではなく、淡く優しい色合いの作品を作り始めた。
当初、この新しい色使いは「沖縄らしくない」と見なされることもあった。しかし、主な着物市場である京都や東京など県外の問屋や顧客からは、むしろその淡い色調が好意的に受け入れられた。京都や東京の街並み、そして現代人の肌色には、力強い原色よりも柔らかな中間色が調和したのである。

次世代へ紡ぐ首里織の未来
現在、首里織を取り巻く環境は決して平坦ではない。 バブル崩壊や阪神大震災、リーマンショック、東日本大震災といった経済的・社会的な変動は、嗜好品である着物の需要に直結した。
しかし、一夫さん家族は悲観していない。かつて観光客が「沖縄そば」や「泡盛」を求め、それに応える形で地元の食文化が開放されたように、外部との交流が文化を育て、洗練されていくことを知っているからだ。
首里織もまた、その過程を体現するもののひとつだ。沖縄県外市場との対話の中で、帯を締める着こなしに合わせて生地の強度を増し、色彩を変化させることで進化してきた。
現在、工房では後進の育成も行われているが、花倉織のような高度な技術を習得し、それを生業として続けていくことは決して容易な道ではない。それでも、一夫さんは妻や息子と共に、現代の暮らしに寄り添う首里織のあり方を模索し続けている。








