


那覇の喧騒にたたずむ「壺屋やちむん通り」
那覇市の中心部に位置しながら、静ひつな空気が流れる壺屋やちむん通り。ここは戦後、沖縄の復興が始まった場所として知られる。
那覇市中心部にありながら静かな空気が流れる壺屋やちむん通り。ここは戦後、沖縄復興の出発点として知られる。空襲被害が比較的少なかった壺屋には、沖縄戦後、収容所で暮らしていた陶工たちが集められ、先遣隊として最初にこの地に入った。戦争ですべてを失った住民のため、彼らは日用雑器を作り無償で配布し、こうして壺屋を起点に、那覇の街は次第に再建されていった。
かつて壺屋の空には、登り窯から立ち上る煙が日常的に見られた。しかし、1970年代に入ると公害問題への意識の高まりとともに、那覇市内での登り窯の使用は原則禁止となる。多くの窯元が煙の出ないガス窯や電気窯への転換を余儀なくされ、あるいは登り窯での焼成を求めて読谷村など郊外へ移転していった。
育陶園の工房がある壺屋には、現在も国指定重要文化財である登り窯が鎮座している。現在、本格的な焼成には使われていないが、年に一度、窯の保存を目的に火入れが行われる。この行事は、壺屋の陶工たちが共同で作業を行う貴重な機会であり、技術と記憶を次世代へ継承する象徴的な役割を果たしている。
そして薪窯ならではの火の景色や偶然性とは異なる環境のなかで、線彫りや絵付けといった「加飾」の技術を極める方向へと進化を遂げ、現代の壺屋焼、そして育陶園のアイデンティティを形成していった。

「卸から小売りへ」生き残りをかけた転換
かつて育陶園は、問屋への「卸」が中心であった。
転機が訪れたのは約20年前のことだ。当時、現在の工房長を含む20代の若手職人たちが入社し、技術力を高めていた。彼らは伝統的な壺屋焼だけでなく、自分たちの感性に合った「使いたい器」を作りたいという欲求を持っていた。時を同じくして、やちむん通り入口にあった高江洲家親族の電器店が閉店し、「使ってみないか」と声をかけられたことがきっかけだった。「何かやってみよう」という軽やかな動機で始めた直営店運営は、後に大きな潮流を生むことになる。
若手職人たちが企画・製作した商品は、現代のライフスタイルに馴染む軽やかさを持っていた。この新しい試みは、予想以上の反響を呼んだ。この体験は、職人たちに大きな手応えと喜びをもたらした。
2009年頃から始まったこの小さな店舗での成功体験を機に、高江洲さんは明確に「ブランディング」を意識した改革に着手した。 それまで感覚的に展開していた店舗や商品を整理し、ターゲットやコンセプトを明確化したブランド展開に舵を切ったのだ。スタイリッシュで現代的な「Kamany(カマニー)」、可愛らしさと日常使いを意識した「guma guwa(グマグワ)」など、異なる世界観を持つ店舗を次々と展開。デザイナーとの協業も積極的に行い、伝統的な技法を用いながらも、現代の食卓に合うデザイン性を追求した。
この「卸から小売りへ」の転換は、単なる販路の変更ではなかった。自分たちの価値を自分たちで定義し、顧客に直接伝える。結果として、育陶園はブランドとしての地位を確立することに成功したのである。


分業が生み出す美しい線彫り
育陶園の工房には、約20名の職人が在籍している。特筆すべきは、その製作体制が完全な分業制であることだ。ロクロで形を作る成形担当、文様を彫る加飾担当、窯詰めを行う担当といった具合に、工程ごとに専門のチームが編成されている。
特に育陶園の代名詞である「唐草線彫り」は、下描きなしで彫り込んでいく高度な技術を要する。熟練の職人が迷いのない手つきで彫り進める様子は、まさに職人技だ。しかし、これをチームとして技術を共有し、標準化することで、ブランドとしてのクオリティを担保している。
伝統工芸の世界では「見て盗め」という徒弟制度的な空気が残ることも多いが、育陶園では合理的なチームビルディングが機能している。これは、伝統を守るためには、組織としての強さが必要であるという、高江洲さんの想いの表れでもある。

伝統の「シーサー」と現代アートの融合
育陶園のもう一つの柱が、沖縄の守り神「シーサー」の製作だ。先代が「現代の名工」に選ばれるなど、その技術には定評がある。現在は高江洲さんの従兄弟がシーサー部門の工房長を務め、伝統的な威厳あるシーサーから、現代の住宅事情に合わせた小ぶりなものまで幅広く手掛けている。
一方で、7代目となる高江洲さんの弟は、よりアーティスティックなアプローチで陶芸の可能性を広げている。フィギュアやキャラクターとのコラボレーション、あるいは「物語や映画の世界観」をテーマにした造形作品など、従来の壺屋焼の枠に収まらない活動を展開している。
かつて、泥漿鋳込み技法を用いた新商品を巡り、「これは壺屋焼ではないのではないか」といった声が上がったことがあった。伝統的な手仕事を大切にする価値観と、より良いものづくりのために技術を進化させていくという考え方とのあいだで、違いがあった。
「伝統とは何か」。高江洲さんは深く自問した。県外や海外を見渡せば、泥漿鋳込みは決して安易な技法ではなく、造形や仕上げにとどまらず、すべての工程において確かな技術力が求められる表現として確立されており、それを用いて優れた作品を生み出している産地は数多くある。
技法はあくまで表現のための手段であり、それ自体に善し悪しがあるわけではない。しかし一方で、壺屋という土地で先人たちが築いてきた価値や積み重ねの重みも、確かに存在している。
その中で高江洲さんが選んだのは、対立ではなく「すみ分け」という考え方だった。伝統的な壺屋焼のラインと、実験的な挑戦を行うラインを分けることで、これまでの価値を大切にしながら、新しい表現の可能性もひらいていく。その両方を同時に育てていく道を選んだのである。

暮らすように旅し、土地の神に触れる
育陶園は、壺屋という街の「景色」を守り、次世代につなぐことをビジョンに掲げている。
壺屋の街を歩くと、石垣や赤瓦の屋根、そして路地の至る所に祀られた神様の存在に気づく。沖縄には古くから祖先崇拝や自然崇拝の文化が根付いており、壺屋にも火の神や土地の神を祀る拝所(うがんじゅ)が点在している。育陶園の敷地内にも神様が祀られており、職人たちは日々の仕事の安全と繁栄を祈っている。
高江洲さんは、こうした精神文化も含めた壺屋の空気を、訪れる人々に感じてもらいたいと語る。将来的には、工房の建て替えに合わせて、宿泊施設などを併設する構想も持っているという。観光客がこの町に滞在し、職人の営みや土地の信仰に触れることで、より深い体験を提供したいという願いからだ。
「なくなってほしくないと思ってもらえる存在でありたい」。それは、単に商品を作り販売するだけではなく、地域の文化やコミュニティの核としての存在意義を指している。









