


異色のキャリアと「生活の糧」としての原点
丸正織物工房の歴史は、戦後の混乱期にまで遡る。大城さんの祖母と祖父が結婚し、湯のし(ゆのし)業を始めたことが起源だ。祖母は隣接する地域から嫁ぎ、小学校4年生の頃から織りに親しんでいたという。当初は産地内分業の一環として、他の工房の経糸(たていと)を巻く作業などを請け負っていたが、やがて自らも織機に向かうようになる。舞踊衣装を扱う店からの注文をきっかけに、本格的に織物工房としての歩みを始めた。
2代目である大城さんの両親も、組合活動や後進の指導に尽力しながら工房を守り続けてきた。しかし、大城さんが家業を継ぐことを申し出た際、周囲の反応は消極的だったという。
「僕が29歳の頃、東京から戻って『継ぎたい』と言ったら、親からは『やめておけ』と反対されました。当時はリーマンショックの影響もあり、業界全体が冷え込んでいた時期です。実際に家業だけで食べていける状況ではなく、早朝にアルバイトをして、午後から工房で仕事をするという生活が5年ほど続きました」
東京では表参道のアパレル店舗で勤務し、ファッションの最前線に身を置いていた大城さん。なぜ伝統工芸の世界に戻ったのか。その背景には、幼い頃から見てきた祖母の姿があった。

「帰郷しておばあ(祖母)と一緒に働いた5年間、彼女が横になって休んでいる姿を一度も見たことがありませんでした。85歳を過ぎても、疲れたら作業を変えて休憩するような感覚で、常に手を動かしている。戦後の何もない時代から、家を建て、家族を養ってきたハングリー精神を目の当たりにして、『この人たちは生きるためにやっているんだ』と痛感しました。それなら、自分もがむしゃらにやれば何とかなるのではないか。そう覚悟が決まったのです」
伝統や文化という高尚な言葉以前に、織物がまずは「生活の糧」であること。その原点に立ち返ったとき、大城さんの中で迷いは消えた。アパレルで培った「売れるもの」「着たいと思わせるもの」への嗅覚と、先代たちが築き上げた技術。その2つを融合させる挑戦が始まった。


分業制の崩壊と「全工程習得」という戦略
南風原の織物産地は、伝統的に分業制で成り立ってきた。図案、括り(くくり)、染色、織り、湯のしといった各工程を専門の職人が担い、一つの反物を仕上げていく。これは効率的な生産システムであった一方、職人の高齢化や後継者不足により、一つの工程でも欠ければ生産がストップするリスクも孕んでいた。
大城さんが帰郷した当時、産地はすでにその転換期にあった。彼は、織りからキャリアをスタートさせながらも危機感を抱き、染め、括り、図案作成に至るまで、すべての工程を自ら習得する道を選んだ。
「南風原は分業の町ですが、これからは全工程を理解していないと生き残れないと感じました。たとえば染色を外注すると、どうしても既存の色や図案に縛られてしまう。自分で染料の配合から行えば、微妙なニュアンスカラーや、これまでにない配色を試すことができます。職人たちに依頼を出す際も、前後の工程を理解していれば、より的確なディレクションが可能になります」
現在、丸正織物工房では、ほぼすべての工程を内製化している。これは単なるリスクヘッジではない。全工程を把握することで、デザインの自由度と製品のクオリティコントロールが飛躍的に向上したのだ。
大城さんの仕事場には、手作りの道具が並ぶ。糸に顔料を刷り込むための道具は、車のワイパーを加工したものだ。
「専用の道具が売っているわけではないので、自分たちで工夫して作るしかありません。木製だと軽すぎて手が安定しないのですが、ワイパーの重さがちょうど良いんです。かつては竹を割って使っていた道具も、材料が手に入らなくなれば代用品を探す。そうやって時代に合わせて変化していくのが、現場のリアルな姿です」

伝統技術のアップデート
琉球絣の特徴の一つに、「御絵図(みえず)」と呼ばれる図案帳の存在がある。琉球王国時代、王府の絵師が描いた図案をもとに、各地で織物が作られていた。大城さんは、この古典柄を現代の感覚で再解釈することに情熱を注いでいる。
「琉球絣の柄には、実は深い意味がないものが多いんです。東南アジアから伝わった絣技術が、沖縄に入ってきた瞬間に抽象化され、幾何学模様としてデザインされたとされています。たとえば『眉(まゆ)』のような形だから『眉柄』と呼ぶように、後から名前がついたものがほとんど。意味が込められていないからこそ、純粋なデザインとして現代のファッションにも馴染みやすいのです」
大城さんは、現代のライフスタイルに合わせた挑戦を続けている。その一つが、独自の染色技法の挑戦だ。
通常の「擦り込み染色」では、顔料が滲まないように糊を入れるため、柄のエッジが強く出すぎてしまうことがある。そこで大城さんは、紅型(びんがた)の「隈取(くまどり)」の技法をヒントに、あえて柄をぼかす手法を取り入れた。これにより、手括りの絣のような柔らかい風合いを、効率的な擦り込み染色で表現することに成功した。
さらに、2025年には新ブランド「marumasa.fab(マルマサドットファブ)」を立ち上げた。これは、従来の着物ファンだけでなく、洋服感覚で着物を楽しみたい層に向けた、無地ベースのラインナップだ。
「伝統的な絣柄は素晴らしいですが、総柄の着物はコーディネートのハードルが高いのも事実です。そこで、あえて柄を抑え、素材感や色味を重視した無地の着物を提案しました。目指したのは、洋服のセレクトショップに並んでいても違和感のない、スーツ感覚で着られる着物です」
この試みは、札幌のギャラリーなど県外の展示会でも好評を博している。古典柄の復元で技術の足腰を鍛えつつ、現代的なラインで新たな市場を開拓する。この両輪が、丸正織物工房の強みとなっている。
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「工芸」から「産業」へ。地域経済を回すエコシステム
大城さんの視点は、自社の利益だけには留まらない。
「地場産業と言われますが、現状は産業と呼べる規模ではなくなりつつあります。織物で生活する人だけでなく、湯のし屋、糸巻き屋、道具屋といった関連業者がいて初めて、産地は成立します。以前、うちが生産数を増やした時期に、湯のし屋さんから『あんたたちのおかげで年が越せるよ』と言われたことがありました。その時、僕らが頑張れば、地域に仕事が生まれ、感謝されるんだと気づいたんです」
かつて南風原には、多くの関連業者が存在し、互いに支え合うエコシステムがあった。しかし、生産量の減少とともに廃業が相次ぎ、今では数軒を残すのみとなっている。
「ある大手自動車メーカーの城下町に行くと、すべての仕事が関連して回っていますよね。規模は違いますが、目指すべき形はそこです。生産力をつけ、仕事を作り出し、関連業者も含めてみんなが食べていけるようにする。それができて初めて、地域の人々に必要とされる『産業』になれるのだと思います」
そのために必要なのは、作り手の自己満足ではなく、使い手である消費者の変化に寄り添うことだ。
「最近は、着物のルールが少しずつ緩やかになってきています。洋服に近い感覚で着物を楽しむ人が増えている。これはすごく良い流れです。作り手側が『この時期にはこれを着るべき』と押し付けるのではなく、自由に楽しむための余白を残した提案をしていく。時代に合わせて変化し続けることこそが、生き残るための唯一の道だと考えています」

ヘッダー画像:photo by Shoji Onuma








