



絹文化を現代へつなぎ直す
ぼた雪が降る3月。福島市の温泉街・飯坂温泉のほど近くにある工房「おりをり」を訪ねた。
ここでは、蚕を育て、糸を紡ぎ、染め、織りまで、絹が生まれるすべての工程を手仕事で行っている。
「養蚕をしているとね、無駄にするものがひとつもないのよ」
鈴木さんの言葉どおり、工房「おりをり」では、蚕から生まれるすべてのものを大切にしながらものづくりが行われている。織物だけでなく、シルクの洗顔パフや、繭に含まれる「セリシン」を抽出してつくる化粧水など、その形はさまざまだ。
取材中には、蚕の糞(蚕沙:さんしゃ)を乾燥させて焙煎した「蚕沙茶(さんしゃちゃ)」を淹れてくれたが、これが香ばしくてとてもおいしかった。
鈴木さんが「絹」に着目したのは、東日本大震災がきっかけだ。
「福島に、何を残すべきか」
そう真剣に向き合ったとき、養蚕から織物まで一貫して行う福島の絹文化に目を向けた。
「絹って、知れば知るほど面白いの。鎖国を解いた日本が、貿易で外貨を稼ぐため主要な輸出品となったのが生糸です。生糸があったからこそ、今の豊かな日本があるとも言えるくらい、大切な文化なんですよね。歴史から見ても、絶対になくしてはいけないものだと思うんです」
現在、鈴木さんは、自ら養蚕を手がけるだけでなく、絹文化を現代へつなぎ直す活動にも取り組んでいる。

織り続けるという選択
鈴木さんの原点は、専門学校時代の研修で訪れた山形の機屋「新田」での出会いにある。
織り機に魅了され、「私の一生の仕事だ」と直感した。その思いのままに修業に入り、技術を身につけていった。
その後、20代で結婚。4人の子どもを育てながらも、織物を続けた。狭い社宅では、ときに織り機がジャングルジムやブランコのように遊び道具になることもあった。それでも、自分の好きなことを手放すことはなかったという。
「4人目が生まれるときには、さすがに畳もうかと思ったんです。でも主人が、『畳んでしまったら、いつできるかわからないよ』と、部屋まで確保してくれて。それがありがたかったんですよね。あのとき畳んでしまっていたら、きっと今はなかったと思います」
転機は42歳のときに訪れる。最愛の夫が病で亡くなったのだ。
4人の子どもを抱え、心身ともに追い込まれるなかで、鈴木さんはしばらくの間深い喪失感から抜け出せずにいた。そんな彼女を支えたのは、夫が残した言葉だった。
「『家を工房にしなさい』って言っていたんですよね。会社の人にも、『うちのやつはここで織物の工房を開くからよろしくな』と言っていて。でもね、子育てをしながら工房を開くって、大変な勇気がいるわけですよ。ずいぶん悩みましたけど、ご近所の方たちが『みんな応援してるよ』って背中を押してくれて、決めることができました」
2001年。1階を工房、2階を住まいにして「工房おりをり」をスタートさせた。
「人に教える以上、本物を身につけたい」と考えた鈴木さんは、さまざまな技術を磨き続けた。テキスタイルデザインを学びに京都へ、羊毛クラフトを求めてニュージーランドへ、さらに草木染めの知識を深めるためにインドへと足を運び、各地で本場の技術を身につけてきた。
その評判は広がり、工房には多くの人が集うようになっていった。


絹文化をなくしてはいけない
2011年、東日本大震災。鈴木さんの活動の方向は、大きく変わった。
「原発事故の影で、福島が培ってきた誇りまで失われてはいけない」
次の世代へ何を残すべきかを問い続けるなかで、福島に根づく養蚕文化の価値にあらためて気づいたという。蚕種(蚕の卵)を孵化させるところから織物までを一貫して行える地域は、世界でも珍しい。福島で培われてきた、誇るべき絹文化だ。
「織物を長年生業にしてきた自分にできることは、これしかないと思いました。それで、蚕なんて今まで触ったこともないド素人なのに、養蚕をいきなり始めちゃったの(笑)」
鈴木さんは、独学で300頭の蚕を育てるところから始め、やがて1万5,000頭を飼育するまでに広げていった。当初は見向きもされなかったベテラン養蚕農家からも、「俺たちが育てるよりいい繭だ」と太鼓判を押されるまでになった。
鈴木さんが目指したのは、人と人がつながりながら、絹の文化を次の世代へと手渡していくこと。
そのために、通常は分業で行われる蚕種製造、養蚕農家、織り手といった現場をつなぎ、絹の文化を未来へつなげるため、2018年に「ふくしま絹の道」を立ち上げた。失われかけていたつながりを取り戻し、福島の絹文化の価値を国内外へと広げている。
現在、鈴木さんは製作のかたわら、工房での養蚕体験や染め物のワークショップ、小学校への出前講座などを行っている。さらに、絹で織った振袖を携え、フランスやスペイン、インドへも足を運び、現地でワークショップやトークイベントを開きながら、絹の魅力を伝えてきた。
「絹の持つ力には、いつも圧倒されています。私を世界へとつないでくれたのも、まぎれもなく絹です。けれど今、国内の養蚕農家は減り続け、過去最少を更新しているのが現状です。失ってから大切さに気づくのでは、遅いと思うんです」

絹の可能性を信じている
現在、鈴木さんはNPO法人を立ち上げ、伝統の継承を「社会の再生」へとつなげる新たな挑戦を始めている。
その活動の柱のひとつが、若い世代とのつながりをつくることだ。社会との距離を感じている若者や、一歩踏み出すきっかけを探している若者たちが、桑畑に足を運び、蚕を育て、草木染めや織物を手伝うことで、少しずつ社会との接点を取り戻していく。
一方で、若者たちそれぞれが持つ得意なことで、活動を支えてもらう。社会とそんな関わり方ができる環境をつくろうとしているのだ。
工房では、真綿を茜で染め、糸を紡ぎ、織って仕立てた掛け着を見せてもらった。茜色に染まったその掛け着は、夕日のようにあたたかく、やわらかな光をまとっていた。
「次は、白無垢を織りたいと思っています。震災があって、たくさんの人に心配もかけてきたけれど、やっとこうして安心して暮らせる日常がある。その福島から、もう一度始めるんだっていうことを、形にして残したいんです。これは夢というより、私にとっては使命だと感じています。白無垢を織り上げたとき、やっとここまで来たって思えるんじゃないかな」
そう言って笑う鈴木さんは、どこまでも絹の可能性を信じている。人をつなぎ、文化をつなぎ、その手から紡がれる糸は、福島のこれからを紡いでいくだろう。


Text by 奥村 サヤ








