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宙吹ガラス工房 虹が継承する「人真似をしない」創造の精神
2026.04.03
宙吹ガラス工房 虹が継承する「人真似をしない」創造の精神

沖縄県読谷村

(有)宙吹ガラス工房虹
Map

稲嶺 盛一郎

宙吹ガラス工房「虹」代表。ガラスの造形的な可能性を追求し、新しい技法に取り組みながら作品制作を行っている。

琉球ガラス

溶かした廃瓶ガラスを宙吹きで成形し、内部に気泡を生じさせる工程で制作される。素材はコーラやビール瓶などの再生ガラスで、自然に生まれる色味を活かす。器や皿、ランプなど日用品として用いられ、厚みと気泡による柔らかな質感が特徴。

沖縄県読谷村の「やちむんの里」にある宙吹ガラス工房 虹は、唯一のガラス工房として存在感を放つ。「泡ガラス」の技法で独自の地位を築いた同工房の背景には、創設者・稲嶺盛吉と息子・盛一郎の葛藤と和解、そして創造への執念があった。
宙吹ガラス工房 虹が継承する「人真似をしない」創造の精神
沖縄県読谷村にある工芸の聖地「やちむんの里」。その一角、陶芸工房が立ち並ぶなかで唯一のガラス工房として存在感を放つのが「宙吹ガラス工房 虹」である。「現代の名工」として知られる故・稲嶺盛吉さんが創設し、現在はその息子の盛一郎さんが代表を務める。「泡ガラス」の技法で独自の地位を築いた同工房だが、その背景には親子2代にわたる激しい葛藤と和解、そして創造への執念があった。

琉球ガラスの異端児「虹」の起源

戦後の沖縄で、駐留米軍が廃棄したコーラやビールの空き瓶を溶かして再生したことから始まった琉球ガラス。資源不足という逆境から生まれたこの工芸は、沖縄の歴史とともに歩んできた。「宙吹ガラス工房 虹」の創設者である稲嶺盛吉さんもまた、その歴史の渦中にいた職人の一人である。

盛吉さんは当初、糸満市にある大規模なガラス工芸施設に在籍していた。当時、沖縄県内には多数のガラス工房が乱立しており、それらを集約しようという動きがあったためだ。しかし、職人としての強い個性を持ち、自身の作りたいものを追求する性格の盛吉さんは、組織の枠組みに収まることができなかった。わずか3ヶ月で施設を離れ、その後、那覇の奥原硝子製造所などを経て独立の道を歩むことになる。

独立当初は苦難の連続だったという。最初の工房での失敗を経て、宜野湾市大山にあった外国人住宅の一角で再起を図った。転機が訪れたのは、作った皿がある喫茶店でランチプレートとして使われていたことだった。その皿を目にした陶芸関係者が、盛吉さんの作るガラスの独自性に注目したのである。

当時、読谷村の「やちむんの里」は陶芸家たちの集落であり、ガラス工房を受け入れる前例はなかった。しかし、盛吉さんの才能を見出した理解者たちにより、例外的にこの地に工房を構えることが許されたという。こうして「宙吹ガラス工房 虹」は、陶芸の里における唯一のガラス工房として、その歩みを進めることになった。

盛吉さんの写真の前には、独創的な作品が数多く展示されている
盛吉さんの写真の前には、独創的な作品が数多く展示されている

廃材と気泡が生む、新しい美のかたち

「虹」の代名詞ともいえるのが、ガラスの中に無数の気泡を封じ込めた「泡ガラス」である。この技法が生まれた背景には、廃瓶再生特有の課題があった。廃瓶を原料とする再生ガラスは、不純物が混入しやすく、完全に透明なガラスを作ることが難しい。かつては、気泡が入ったガラスは「二級品」として扱われ、業者から返品されることも珍しくなかった。

盛吉さんは、いくら技術を尽くしても消えない気泡に悩み、逆転の発想に至った。「消えないなら、いっそのこと泡を主役にしてしまおう」。そこから、意図的に美しい泡を作り出すための研究が始まった。

アルミ缶、砂糖、塩、ウコンなど、さまざまな素材を溶けたガラスに投入し、その反応を確かめた。さらに、炭化させたコーヒー豆や、米糠、備長炭なども泡を生み出す素材として採用された。特に米糠を使用すると白っぽい泡が生まれ、備長炭を用いると力強い黒の泡が表現できる。

こうして完成した泡ガラスは、当初周囲から「ガラス業界の常識外れ」と冷ややかな目で見られた。しかし、京都のバイヤーの目に留まり、開催された展示会で状況は一変する。独創的な質感と温かみを持つ作品は大きな反響を呼び、持ち込んだ作品が完売するほどの成功を収めた。かつて「二級品」とされた廃瓶ガラスは、盛吉さんの執念によって、唯一無二のアートへと昇華されたのである。

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作品名:茶泡三色巻花器壺<br>偶発的に生じた泡の模様が唯一無二の作品となる「虹」の「泡ガラス」
作品名:茶泡三色巻花器壺
偶発的に生じた泡の模様が唯一無二の作品となる「虹」の「泡ガラス」

偉大な父・盛吉氏との確執と家出

現在の代表である盛一郎さんは、中学卒業と同時にガラス職人の道へ進んだ。当初は父の下ではなく、父の紹介で那覇の奥原硝子製造所に入社した。15歳という若さで厳しい職人の世界に飛び込んだのは、決してガラスが好きで始めたわけではなかったと振り返る。早く自立し家庭を持ちたいという一心だけで、入所を決めたのだ。

約10年の修業を経て、盛一郎さんは父が営む「虹」に入社する。しかしそこで待っていたのは、偉大すぎる父との衝突だった。修業時代に培った伝統的な技法や考え方は、独創性を追求する盛吉さんのスタイルとは相容れない部分があった。盛吉さんは自身の作品作りに対して一切の妥協を許さず、盛一郎さんが作ったものに対しても「二度とこんなものを作るな」と厳しく否定することもあったという。

また、工房の経営や対外的な対応を盛一郎さんに任せる一方で、職人としての主導権は譲らない父の姿勢にも、盛一郎さんは複雑な思いを抱いていた。周囲からは常に「稲嶺盛吉の息子」として見られ、比較されるプレッシャーものしかかる。

確執は深まり、盛一郎さんが43歳のとき、ついに決定的な決裂が訪れる。激しい口論の末、盛一郎さんは「二度とガラスはやらない」と告げ、20年以上勤めた工房を飛び出した。

異業種での挫折とガラスへの回帰

工房を離れた盛一郎さんは、ガラスとは無縁の世界で働き始めた。建設現場での作業や、清掃業務など、生活のために懸命に働いた。しかし、40代半ばでの異業種への転職は想像以上に過酷だった。

ある時、清掃の仕事中に年配の従業員から叱責を受けたことがあった。自分なりに真剣に取り組んでいたつもりだったが、その道のプロから見れば不十分だったのだ。どんな仕事にも誇りを持って働いている人がいること、そして自分にとっての誇れる仕事はやはりガラスしかないということを気づかされたという。

かつてガラス職人として一つの仕事で生計を立て、多くの人に喜ばれていた環境がいかに恵まれていたかを実感した。1年間の冷却期間を経て、盛一郎さんは再びガラスに向き合う決意を固める。

父・盛吉さんに頭を下げ、工房の敷地内で独立して活動することを許してもらった。盛一郎さんは自身の工房を立ち上げ、父とは異なるアプローチで作品作りを開始した。この時期、物理的な距離を保ちながら制作を続けたことで、盛一郎さんは父の偉大さを客観的に再認識することができたと語る。

ギャラリーには、盛一郎さんの若かりし職人時代の写真も飾られており、職人として歩んできた時間の深みを感じることができる
ギャラリーには、盛一郎さんの若かりし職人時代の写真も飾られており、職人として歩んできた時間の深みを感じることができる

介護の日々で築いた真の親子関係

転機は突然訪れた。独立して数年が経った頃、盛吉さんから呼び出された盛一郎さんは、父の老いと限界を悟る。80歳を目前にした父は、言葉にこそ出さないものの、工房の将来を息子に託そうとしていた。盛一郎さんは父の意を汲み、「虹」の代表として戻ることを決意する。

代表就任から間もなく、世界はコロナ禍に見舞われた。さらに、盛吉さんが病気を患っていることが発覚する。すでに手術が難しい段階まで進行しており、医師からは余命宣告を受けた。

そこから1年半に及ぶ在宅介護の日々が始まった。工房のスタッフたちも交代で介護に協力し、全員で盛吉さんを支えた。かつては工房で厳しい師弟関係にあり、会話も敬語だった親子だが、介護を通じて「普通の親子」としての時間を取り戻していった。

盛吉さんが息を引き取ったとき、盛一郎さんに後悔の涙はなかったという。最後までやり切ったという充実感と、父への深い感謝だけが残った。

「人真似はしない」継承される哲学

盛吉さんが遺した最大の功績は、泡ガラスという技法そのものよりも、「人真似をするな」という精神にあると盛一郎さんは考える。盛吉さんは、牛の骨を使うのが一般的であればマグロの骨を使い、既製品の原料が安定していればあえて廃瓶にこだわった。常に他者とは違う道を選び、独自の表現を模索し続けた。

盛一郎さんもまた、その哲学を色濃く受け継いでいる。自分たちの身近にある素材や技法を掘り下げるだけでも、一生かかっても極められないほどの深淵があると考えており、弟子たちに対しても、安易に師匠の真似をするのではなく、自分自身のオリジナリティを持つように指導している。

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ガラスに囲まれた工房で過ごす時間

現在、盛一郎さんは工房の在り方をさらに進化させようとしている。目指しているのは、単にガラス製品を販売する場所ではなく、訪れた人々が心地よい時間を過ごせる「滞在型」の空間だ。

工房内にはベンチを設置し、ガラスを買わなくても、ただ座って読書をしたり、職人の作業を眺めたりして過ごせる環境を整えている。盛一郎さんは、「思い思いに過ごしてもらい、何度でも来たくなる場所にしたい」と語る。

製品の質の高さはもちろんのこと、工房全体に漂う空気感や、そこで働く人々の温かさを含めて、「虹」というブランドを体験してほしいという願いがある。

廃瓶という「不要とされたもの」に命を吹き込み、親子2代のドラマを経て輝きを増した「宙吹ガラス工房 虹」。そのガラスの一つひとつには、ひたすらに独自性を追い求めた職人たちの精神が今もなお息づいている。

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