


三線職人としてのはじまりと最初の壁
仲嶺さんが本格的に三線職人の道を歩み始めたのは19歳の頃である。父もまた三線職人であり、幼少期から工房の手伝いをしていた彼にとって、その世界は身近なものであった。しかし、日当制のアルバイトから月給制の職人へと立場が変わった瞬間、プロフェッショナルとしての壁が立ちはだかる。
三線製作の最初の工程である「木取り(きどり)」は、原木から棹となる角材を切り出す作業だ。木の繊維や節の位置を見極め、反りやねじれが生じないよう最適な部位を選定する必要がある。一つの丸太からどのように部材を取るか、そのパズルには無数の解が存在し、判断を誤れば原料である貴重な黒檀が無駄になる。
若き日の仲嶺さんは、父の作業スピードと精度の高さに圧倒された。父が20分から30分で仕上げる棹の削り出しに、彼は8時間以上を費やしてもなお、納得のいく形状にはならなかった。「丁寧に」を意識するあまり削りすぎてしまい、失敗を重ねる日々。会社組織であれば明らかな赤字社員であるという現実に、深い悔しさを味わったという。
技術の差を埋めるため、3日間仕事を休み、父の作業台の横にひざまずき、その手元をひたすら観察し続けた。ノミの角度、力の入れ方、工程の順序。すべてをノートに記録し、図解し、疑問点をその場で問いかけた。この徹底した探究心と、暗黙知を「伝えられる知」へと変換しようとする姿勢は、後のデータを取り入れた改革の原点となっている。

審査員の一言が変えた職人人生
職人として研鑽を積むなかで、仲嶺さんのキャリアを決定づける転機が訪れる。沖縄県三線製作事業協同組合が設立され、初の品評会が開催されたときのことだ。県内の三線店から60挺以上の作品が出品されるなか、仲嶺さんは父から受け継いだ「仲嶺家の型」で製作した三線を出品した。
当時の品評会では、文化財として指定されている古典的な三線の図面を忠実に模写することが良しとされる風潮があった。審査員の一人は、図面通りではない仲嶺さんの作品を規格外として否定しようとした。しかし、審査員として参加していた2名の演奏家がこれに異を唱えた。「図面通りに作るだけが正解ではない。この作品には確かな技術と美意識がある」と評価し、急遽、予定にはなかった特別賞(審査員賞)が設けられることとなった。
表彰式で審査委員長から、こう伝えられた。「こんなに若い人が作っているとは思わなかった。将来、現代の名工になりうる技量を感じる。自信を持って頑張りなさい」
この言葉は、一職人としての自信を与えただけでなく、業界内での仲嶺さんの立ち位置を一変させた。それまで「三線職人の息子」として見られていた若手が、一人の技術者として認められた瞬間だった。この出来事をきっかけに、彼は組合の理事、そして事務局長へと推挙され、業界全体の課題解決に取り組むことになる。それは、個人の技術を磨くだけでなく、組織としての基盤整備や対外的な折衝という、まったく異なるスキルの習得を必要とすることを意味していた。


居酒屋会議から始まった組合の近代化
しかし、事務局長としての道のりは平坦ではなかった。当初の組合には事務所すらなく、会議は居酒屋で行われるのが常だった。酒が入れば議論は白熱し、建設的な結論が出ないまま散会することも珍しくない。個性の強い職人たちを束ね、組織としての意思決定を行うためには、根回しや個別の説得といった地道な調整が必要だった。
仲嶺さんが事務局長に就任して、最初に取り組んだ大仕事の一つが、国の「伝統的工芸品」への指定に向けた申請業務である。指定を受けるためには、その技術や技法が100年以上継承されていることを客観的に証明しなければならない。しかし、戦火に見舞われた沖縄では、戦前の資料の多くが失われていた。
沖縄県三線製作事業協同組合(以下、三線組合)では、職人たちへの聞き取り調査を行い、古い家系図や新聞記事を掘り起こした。専門家ともその過程で、ある老舗三線店の家系図と、博物館に収蔵されていた古い三線に記された「毛氏(もううじ)」という記述が一致することを発見する。さらに古地図と照合することで、戦前から三線製作が行われていた事実を立証した。こうした調査の積み重ねが実を結び、沖縄の三線は国の伝統的工芸品として指定されるに至った。
また近年では、三線の音色に関する理解を深めるため、ヤマハ株式会社との協業研究を進めている。
例えば、その一環として着目されているのが、蛇皮の張り具合の捉え方である。三線には「8分張り」「9分張り」といった職人の経験に基づく表現があるが、その基準は必ずしも統一されていない。こうした感覚的な違いを補う手がかりとして、皮を叩いた際の音の周波数を測定し、張り加減状態の可視化ができないかという取組みも進めている。
こうした取り組みは、職人の感覚を否定するものではなく、共通言語としての「物差し作り」を目指すものである。それにより、経験の浅い職人でも一定の品質を担保できるようになり、また材料の制約があるなかでも、理想の音色に迫るための新たな手がかりになり得るのではないかと、現在も試行が続けられている。

「よく生まれた」というアニミズム的工芸観
沖縄の工芸には、独特の精神性が宿っている。その1つに弟子が製作した三線を見て、先輩職人が評する際に「ゆーぅんまりとーん」という言葉がある。
「『ゆーぅんまりとーん』とは『良く生まれた』という意味で、『良く出来上がったね』ではなく、『良く生まれたね』と言うんです。これは、職人が自分の力で作ったというよりも、材料である木や自然に対する敬意が含まれています。三線はこの世に『生まれてきた』存在であり、職人はその手助けをしたにすぎないという感覚です」
この言葉には、沖縄に根付く自然崇拝(アニミズム)の影響が見て取れる。材料や道具を跨いではいけないという教えも、単なる行儀作法ではなく、物に魂が宿るという考えに基づいている。
三線は、中国から伝来した楽器が、沖縄という風土の中で独自に変化し、定着したものである。異文化を受け入れ、自分たちのものとして昇華させる「チャンプルー文化」の象徴とも言える。仲嶺さんは、この「沖縄らしさ」こそが、守るべき伝統の核であると考える。


市場の二極化と新たな価値創造
現在、三線市場は二極化が進んでいる。低価格帯の三線は海外生産が主流となり、ネット通販などで手軽に入手できるようになった。一方で、職人が原木から手掛ける高品質な三線は、高価格帯の工芸品として位置づけられている。
「かつては、安い三線を作る仕事が若手職人の修業の場でした。しかし、その仕事が海外に流出したことで、若手が技術を磨きながら生計を立てるステップが失われてしまいました。これは、三線製作業界の深刻な課題の一つです」
新たに三線組合で取り組んだ企画の一つとして「泡盛三線」などの異業種コラボレーションでは、泡盛メーカーとタイアップし、瓶のラベルや色を模したデザイン性の高い三線を開発。これがヒット商品となり、若手職人に新たな仕事を生み出した。
「伝統を壊すなという声もありましたが、若手の仕事を作るためには新しい挑戦が必要です」









