



糸商から博多織の織元に
西村織物の歴史は、糸商からはじまった。西村家の祖先である長崎の豪族(松浦党)の西村増右衛門が、1587年に豊臣秀吉の博多町割に参画し、商人の神屋宗湛を助けた功により、“隅切り角に四つ剣菱”の紋を授与されたことがきっかけだった。
「戦国から江戸時代まで、しばらくは糸商を営んでいましたが、江戸幕府が海外への金銀流出を防ぐ政策をとったことから、絹糸の輸入が制限されるようになりました。そこで当時の当主・西村儀平は事業の方向性を変え、博多織をはじめました。今から164年ほど前のことです」
以来、博多織の織元・西村家として代々その歴史が紡がれてきたが、順風満帆なときばかりではなかった。
「今の織機は鉄製ですが、当時は木製だったため、1945年の福岡大空襲で建物も織機もすべて焼失しました。それを裸一貫で立て直したのが、私の祖父にあたる4代目・社長の西村政太郎です」

博多から天神に、天神から大橋にと何度か移転し、やがて現在の筑紫野市に本社を構えるに至った。1974年には博多織の需要がピークを迎え、土産物として博多織の帯が飛ぶように売れた。当時は、200軒を超える織元が存在したという。
「祖父は福井県にあったリボン織機から着想を得て、2本同時に帯を織れる織機を博多で初めて開発しました。生産量が倍になり、売り上げもぐっと伸びたそうです。特許を取れそうな技術でしたが、『産地をみんなで盛り上げよう』という思いから、祖父は同業者の方々にもその技術を伝えていたと聞きました。
1982年には、私の父・西村悦夫が社長に就任しました。弊社は男帯や半幅帯などを主体に製造していましたが、呉服業界が斜陽産業となったため、この頃から少しずつ装飾性の高い分野へと移行していきました」
伝統的な平地に加え、紋地の織物(色糸を使って文様を織り出した織物)を開発するなど、これまで手がけていなかったものにも積極的に取り組み、変わりゆく時代のなかでしっかりと伝統をつないできたのだ。


デザインから製造、営業まで自社で完結
聡一郎さんが携わるようになったのは、20代後半の頃。東京で会社員として働いていたが、5代目・悦夫さんの体調不良を機に会社を辞めて戻ってきたそうだ。
「以前は大企業に所属し、海外輸出に関する仕事をしていました。辞めて戻ってきたものの、今まで経験してきたことと、中小企業かつ伝統工芸という非常に特殊な分野とでは感覚がまったく違い、言っていることがまるで噛み合いませんでした。正直、最初は戸惑いました。
若かったのもあり、うまくいかないと焦るばかりで。『このままではダメだ』と思い、博多織の学校に入って一から勉強したのです」
3年ほど修行を積んだ後、改めて西村織物に戻って代替わりをしたそうだ。社長になってからの数年間は、呉服業界のなかでいかにマーケットを広げるかを考えていたそうだが、コロナ禍を機に考えが変わったという。
「コロナ禍を迎えてぐんと売り上げが下がったときに、『何でもやってみよう』と思うようになったのです。それをきっかけに、建築やアートなどの他業種とのコラボレーションにも積極的に挑戦するようになりました。呉服需要は徐々に減ってきているのですが、それをカバーするように他の分野での業績が伸びてきています」

博多織の織元は現在36社ほどで、そのうちの半数以上が個人事業主。会社として続いているのは、7社ほどしかないという。
「産地としては小規模なのですが、それが強みにもなっているのです。分業制で製造している規模が大きな産地では、一部の工程で何か問題が起きてしまうと、ものが作れなくなってしまいます。
一方で、博多織のような小さな産地では、以前から各織元が工程のほとんどをそれぞれで対応しないといけない状態になっていました。そのため、弊社もデザインや染色などを内製化し、糸づくり以外のすべての工程を自社で完結できる体制になっています」
ものづくりにおけるこだわりを聞くと、聡一郎さんは「西村織物として恥ずかしくないものを作ること」と答えてくれた。美しいもの、人に認められるものを作るためには、自分自身の“ものを見る目”も養わなくてはならない。160年以上続く伝統をここで絶やさぬよう、日々博多織と向き合う真剣な姿があった。


伝統的な絹織物×アートの融合にも挑戦
緯糸で柄を表現する京都の西陣織は、きらびやかな装飾性の高い織物が特徴だが、経糸で柄を織り出す博多織は、どちらかといえば実用性が重視されている織物だ。昔は武士の男帯、現代では落語家が使用する帯などによく用いられている。落語家が使用している帯は、そのほとんどを西村織物が作っているという。
そんな博多織は、意匠デザイン、糸染め、糸繰り(いとくり)、整経(せいけい)、仕掛け、製織(せいしょく)、仕上げの7つの工程を経て作り上げられる。西村織物では各工程に伝統工芸士が配置されており、それぞれが培ってきた技術を生かして仕事にあたっている。
同社が生み出すデザインはたくさんの人を魅了しており、過去には大手化粧品メーカーのショッパーデザインに採用された実績もある。一体、どのような人が担当しているのか。

「弊社はオリジナリティあふれる図案に定評をいただいているのですが、それを作っているのはデザイン部門に所属するデザイナーたちです。
伝統的な絹織物とアートの融合に挑戦するシリーズ『Rライン』を展開しており、このシリーズでは毎年テーマを掲げてアート性の高い図案を起こしています。たとえば、『FLOWERS MAP _ East Asian』という作品では、日本の桜と菊、韓国のムクゲ、中国の牡丹など、東アジアの9つの国や地域を象徴する花を、地図のような距離感でレイアウトした帯を作りました。
この帯には、『花のように争うことなく多様性を認め合えることができれば、どんなに素敵なことだろう』と、世界平和への祈りが込められています」
デザインのアイディアは、アーカイブ(過去のデザイン)や美術館の展示などから得ているそうだ。これからも、伝統工芸の新しい境地を開拓していくことだろう。


人生を豊かにする伝統的工芸品を次の世代へ
聡一郎さんに今後の展望について尋ねたところ、次のように話をしてくれた。
「歴史を積み重ねるなかで残されてきた資料を整理して、知的財産にできればいいなと思っています。ハード面ももちろんなのですが、ソフト面も充実させていきたいですね。また、博多区にも博多織を見てもらえる場所を設けたいなと考えています」
西村織物は一子相伝で博多織を守ってきたのではなく、製造に携わっている人全員で技術を継承してきた。それを未来に維持していくためには人材の確保が欠かせないが、「徐々にご縁がつながっていくのが理想」だという。
「近年は人材を確保するための方法がいろいろありますが、弊社は織物に興味のある方に加わっていただけるようにしたいなと思っています。ポップアップストアで弊社を知って興味を持ち、『織物が好きだからやってみたい』と加わってくださる――そんなふうにご縁がつながっていくとうれしいです」

工芸の世界は奥深く、一生をかけてもすべてを理解するのはなかなか難しい。だが、「見たり触れたりするなかで理解が深まっていけば、人生はより豊かになる」と聡一郎さんは語る。
「伝統工芸品が持つ美しさは、とても大きな魅力を持っています。そういったものの身近にいられることが、本当に幸せなことだと感じています。大げさな言い方かもしれませんが、博多織は私の人生そのもので、背負って生きていると思っています」
伝統を大切にしながらも、博多織の新しい可能性を切り開いていく西村織物。160年以上紡がれてきたその歴史を、これからも守り抜くことだろう。

Text by 奥山 りか








