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海から生まれ、四季を映すガラスへ──「津軽びいどろ」の歩み【前編】
2025.09.23
海から生まれ、四季を映すガラスへ──「津軽びいどろ」の歩み【前編】

青森県青森市

北洋硝子株式会社
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中川 洋之

北洋硝子株式会社 常務取締役 工場長。津軽びいどろで扱う製品すべての色づくりと溶融を担い、ガラスの色づくりに関する経験を活かしながら後進の育成にも取り組む。

津軽びいどろ

吹きガラスの技術で溶融したガラスを成形し、多様な色ガラスを組み合わせて模様や色彩を表現する。原料にはガラス素材に加え、青森・七里長浜の砂などを用いることで独特の色合いを生み出す。食器や花器など日常使いの器として用いられ、青森の四季を表現する点が特徴。

青森の豊かな四季を、万華鏡のように映し出すガラス工芸「津軽びいどろ」。その原点が漁業用の「浮玉」であり、2度の存続の危機を乗り越えて現在の姿があることはあまり知られていない。時代の変化の中で職人たちが技術を応用し、新たな価値を見出してきた歩みを追う。
海から生まれ、四季を映すガラスへ──「津軽びいどろ」の歩み【前編】
青森の豊かな四季を、万華鏡のように映し出すガラス工芸「津軽びいどろ」。しかし、その原点が漁業用の「浮玉」であり、2度の存続の危機を乗り越えて現在の姿があることはあまり知られていない。
時代に翻弄されながらも、職人たちはいかにして困難を乗り越え、ガラスの可能性を広げてきたのか。北洋硝子株式会社工場長である中川洋之さんに、その70年以上の歩みを伺った。

原点は漁師の「浮玉」

その歩みは、1949年に遡る。青森の地で、北洋硝子は漁業用の「浮玉」を作る工場として産声を上げた。昭和20年代、青森ではホタテの養殖が盛んになり始め、浮玉の需要は爆発的に増加した。

「1軒の漁師さんが、500個以上も使うんです。それが何百軒とあるわけですから、相当な数を作っていましたね」中川さんは当時をそう振り返る。

北洋硝子の浮玉には、誇りと自信の証しとして「北」という漢字のマークが刻まれていた。エンブレムを入れるという発想自体が珍しかった当時、それは「うちのガラスは丈夫だ」という、職人たちの静かなプライドの表れだった。

その品質は、やがて海を越える。太平洋を2年半から3年かけて漂流し、アメリカの海岸にたどり着いた「北」マークの浮玉。漢字が読めないアメリカの人々は、このマークをアルファベットの「F」が2つ並んでいると見立て、「ダブルエフ(FF)」と呼んだ。これが後に、北洋硝子の一つのシリーズ名となる。

職人たちは来る日も来る日も、吹きガラスの技術で浮玉を作り続けた。そして作れば作るほど、その技術は磨かれていく。この、日々ガラスを吹き続けた経験こそが、後に会社を救う唯一無二の財産となるのだった。

創業当時に北洋硝子で作られていた北マーク(ダブルF)の付いた浮玉
創業当時に北洋硝子で作られていた北マーク(ダブルF)の付いた浮玉

存続を揺るがした2度の危機。プラスチックの台頭と時代の変化

順風満帆に見えた浮玉製造。しかし、時代の変化は容赦なく彼らに襲いかかる。プラスチックという新たな素材の登場だ。

軽くて丈夫、ガラス製と違って網も不要で、機械による大量生産も可能。漁師たちは、こぞってプラスチック製の浮玉へと乗り換えていった。皮肉なことに、この画期的なプラスチック製浮玉を開発したのは、後に日本を代表するメーカーとなるアイリスオーヤマの創業者だったという。

「ガラスの浮玉は、完全に生産中止に追い込まれました」

最大の顧客を失い、会社は存続の危機に立たされる。しかし職人たちの手には、浮玉づくりで培った高度な吹きガラスの技術が残っていた。「浮玉が作れるのだから、花瓶だって作れる」。彼らはその技術を応用し、色とりどりの花瓶を作ることで、新たな活路を見出した。300人いた従業員は70名ほどに縮小されたが、会社はなんとか生き延びた。当時は大きな花瓶を作る工場も少なく、北洋硝子の製品は再び多くの家庭や施設で親しまれるようになった。

だが、安息の時は長くは続かない。昭和60年代後半、人々の生活様式が変わり、床の間に大きな花瓶を飾るという文化そのものが廃れていく。

「昔はどの家にも必ずありましたし、校長室や銀行のカウンターにもあったものです。そういう習慣が、なくなってしまった」

またしても、作るものがなくなった。2度目の、そしてより深刻な危機だった。

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「津軽びいどろ」誕生の瞬間。伝統工芸品第1号としての再出発

「今度は、食器を作ろう」

花瓶に比べ単価は低いが、日常的に使われる食器に彼らは最後の望みを託した。数多く作るためのチャレンジが始まった。

そんな折、大きな転機が訪れる。青森県が新たに「伝統工芸品制度」を始めたのだ。北洋硝子はその第1号として認定され、これを機に「津軽びいどろ」というブランドが正式に誕生した。

ただ作るのではない。「コンセプト」を持って作ろう。

彼らが見出した光、それは足元に広がる青森の自然だった。「青森県は、春夏秋冬がはっきりと3ヶ月ずつある、とても美しい場所」と中川さんが語るように、青森には春に咲き誇る弘前城の桜、夏を彩るねぶた祭の熱気、山々を燃やす秋の紅葉、そしてすべてを白く包む冬の雪景色がある。この誰もが愛する青森の四季を、ガラスの色で表現する。このコンセプトが、津軽びいどろの魂となった。

職人たちは、青森の自然を忠実に再現するため、次々と新しい色の開発に取り組んだ。その数は、今や100色を超える。

さらに、原料そのものにも青森の魂を込めた。工場の近くにある七里長浜。その砂を溶かしてみると、不純物が高温で反応し、美しい緑色のガラスが生まれたのだ。

「普通の綺麗な砂を溶かすと、無色透明になるんです。でも、この浜の砂は、さまざまな不純物が入っているおかげで、美しい緑になる」

それは、自然が生んだ偶然の奇跡だった。

津軽びいどろ 十和田紅葉 花器中
津軽びいどろ 十和田紅葉 花器中

スターバックスとも連携。伝統と革新を両立する現在の挑戦

青森の四季と自然をその身に宿した「津軽びいどろ」は、やがて多くの人々の心を掴んでいく。その評判は、新たな出会いを引き寄せた。

スターバックスとは、青森県内限定のグラスを共同開発。その土地の文化を尊重するスターバックスの理念と、津軽びいどろの物語が見事に融合したのだ。この取り組みは大きな成功を収め、後に世界に6店舗しかない特別な店舗の一つ「スターバックス リザーブ® ロースタリー 東京」のオリジナル商品開発にまで発展した。

浮玉を作ることしか知らなかったガラス工場は、今や日本を代表するブランドと肩を並べ、伝統技術をもって次々と新しい挑戦を続けている。

RESERVERROASTERY TOKYO JIMOTO Made +
RESERVERROASTERY TOKYO JIMOTO Made +
漁師の浮玉から、四季を映す食器へ。津軽びいどろの歩みは、決して平坦な道のりではなく、時代の変化の中で可能性を信じ続けた、挑戦と革新の記録だった。しかし、この歩みは職人たちの卓越した「技術」と、決して「妥協しない」という熱い「哲学」なしには語れない。
後編では、100色以上の色と9つの複雑な技法を自在に操り、この美しいガラスを生み出す職人たちの世界に迫っていく。
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