



「静謐な、余白をつくりたい」と言う。
てのひらをなぞる神秘的なふくらみと、はなびらを模した縁。うつわの肌には、幾重にも重ねた漆の奥に、木目が滲んでいる。内木悠未さんは、挽物(ひきもの)作家として独立し、ちょうど1年になる。
石川県加賀市山中温泉。市内から渓谷をバスで30分揺られ、温泉街の工房をたずねた。

くらしの道具と、大きな絵
岐阜県生まれ。美に出会ったのは、高校1年生のときだ。
「スタジオジブリの『借りぐらしのアリエッティ』が公開されたんです。その背景画がすごくきれいで——」
その展覧会を東京で見たとき、自分も「何かをつくる人になりたい」と思った。どうすればいいのだろう、誰に教われば——。素朴な気持ちで美大を進路に決めた。
その受験期に、「日本画」に魅了された。美術館の照明を受けて絵の表面がきらきらと輝いていた。鉱石を砕いた、岩絵具の粒子。日本画は、絵でありながら物質である。
「全国の美大の日本画の卒業制作展を見に行きました。そのなかでも、具体的なモチーフで色使いと描写が繊細な作品が多かったのが、愛知県立芸大でした」
1浪し、同学の日本画専攻に入学した。


内木さんは、工芸ではすこし珍しい、日本画を経由したつくり手である。
岩絵具を膠(にかわ)でとき、和紙や絹のうえにかさねた学生時代。「けれど、画家としての才能はなかったのだと思います」と、当時を思い出しながら言った。
「美大では、3年生になったころから徐々にサイズの大きな絵が課題になっていくんです。100号、120号......。当時の私には、その大きさが抱えきれないと感じました」
自分の背丈を超えるパネルと向き合うと、この上に何を表現したいのかを見失いそうになる。絵と自分自身、作品のなかの世界と自分の生きている日々が、どうしても重ならない。
私は「つくる人」には、なれないのかもしれない。美術という、正解のない底なしの自由の前で、立ち止まる。
—— そのとき、ふと「暮らしのなかの道具」が頭に浮かんだ、という。
「生活の場面に私のつくったものがあって、そこで人と人が楽しんだり、穏やかな空気になったり、コミュニケーションが生まれて......」
手に職をつけたい、という思いはあった。大学院には進まず職人の道を探しはじめた23歳。ここでようやく、内木さんは「工芸」に向かう。

工芸——「技術」が美を決める世界
全国の訓練校を見学した。富山ガラス、瀬戸焼、美濃焼、美濃和紙、飛騨家具。みな美しい手仕事だが、すぐには決めきれなかった。
「陶磁器は、形も釉薬も無限にあります。ガラスも使い道が広い。日本画のときのように、やりたいことがブレてしまうだろうと思いました」
表現性よりも、受け継がれてきた技術が美しさを決める世界。自分の作品ではなく、注文に応えながら一生をかけて「技」を磨いていく、職人の生き方を目指した。出会いは偶然だった。
「知人の家で工芸作家の作品をいくつか見せていただく機会があり、そのなかに、山中の挽物職人の漆器があったんです」
輪島塗のような黒や朱の漆器とは、やや違う。うつわの表面に漆がグラデーションをなし、その奥に木目が透ける。
手に取って、見惚れた。木のなかで、まるで水面が揺れるようである。
—— 漆芸のなかでも、山中漆器の特徴は「縦木取り(たてぎどり)」と「拭き漆(ふきうるし)」にある。
通常、木材は木の伸びる方向に沿って取る。これを「横木取り」といい、広い板を取れるため作業効率がよく、家具や床材など大物に欠かせないが、乾燥により変形しやすい。
対して、木を輪切りにし、年輪と平行に加工することを「縦木取り」という。強度が高まり、光が透けるほど薄く削ってもわずかな歪みも生じず、長年使えるものとなる。

木材を機械式のろくろに取り付けて回転させ、刃物をあてて「挽く」。お椀、皿、盃など、円形の食器が精緻に削り出される。
そして「塗り」。
「拭漆」は透明感のある飴色の生漆を使い、塗り込んでは拭き取り、乾かし、また塗り込む。幾度もかさねることで極薄の漆の塗膜が木地に浸透し、木目が引き立つ。
木材をうつわに加工する職人を「木地師(きじし)」と呼び、国内最大の産地は石川県加賀市。日本で唯一の、木地師の研修所がある土地であった。
—— ここでなら、あたらしい一歩を踏み出せるかもしれないと思った。

職人の言葉 木地師の技
内木さんが日本画から転向し、挽物を選んだ理由はこのうえなく純粋だ。素材と技への興味。そして生活と地続きであること。
2018年、内木さんは、石川県挽物轆轤(ひきものろくろ)技術研修所に入所する。講師はみな、現役の木地師だ。ひたすら「技」と向き合う日々がはじまった。
入学してすぐは、木に触れることを許されなかった。はじめて握ったものは、金属の棒。木地師は、うつわを挽く刃物を自分で打つ。鍛造し、木を削り、刃が鈍れば研ぎ、折れたらまた打つ。ものづくりは、道具づくりだった。


—— 1ヶ月以上。一日中、鋼の棒を金づちで叩いた。打っても打っても刃にならない。「同期のなかでは、決して器用な方ではありませんでした」と言う。しかし、手首が腱鞘炎になりながらも飽きることはなかった。ただ物質と技術のみが、目の前に立ちはだかっていた。
「授業は、ぜんぶ大変でした。刃物の鍛造も、ろくろも、塗りも。でも私には合っていたんだと思います。目指す技があって......ひたすら、ひたむきになれるから」
—— 2年後。内木さんは研修所を卒業し、修業生活に入る。山中の工房をいくつか見学したなかに、自分の仕事を止めて道具を見せながら、技術を語って聞かせた職人がいた。背中を見せ、目で技を盗ませる職人たちとは明らかに違う。「言葉」を持っている職人だった。
中嶋武仁(なかじま・たけひと)氏、あの日に見た山中の漆器の作者、中嶋虎男(なかしま・とらお)氏の息子であり、工房主だった。
入門するとき、「独立まで3年から5年だよ」と言われた。
山中の木地師の仕事は、ほとんどが全国の漆器の素地となる、「木地」部分の請負である。特に能登・輪島塗には山中の木地が欠かせない。「工房なかじま」も同様、日曜の休み以外、来る日も来る日もうつわを挽く。
「最初の1年間はなかなか師匠の検品に通らず、半分以上がやり直しでした」
うつわの厚み・曲線のコントロール。最終的なチェックは指先で行われる。特に「ヘソ」と呼ばれる中心の凹凸が絶対に残らないよう仕上げるのが師匠のプライドだった。
「ヘソが目では見えなくても、指で触れればわかります。指1本ではわからなくても、2本で触れてはじめてわかるわずかな凹みもあります」
うつわは、触れることで完成する。師匠は丸いうつわに結晶する身体性を、おしみなく弟子に語った。そのうえで、「余白を意識してつくる」そうも言ったという。
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うつわにおける「余白」とはなにか? 内木さんはいまも手を動かし、考える。
「『間』をつくっている、という感覚なんです。木の形状だけを見るのではなくて、うつわの周りに自然で心地よい『余白』...…広がりや奥行きが生まれたときに、いい『かたち』だと思えます」
うつわと、それにのせる食べ物の間。人とうつわの間。人と人の間。
木地師としての請負仕事のかたわら、師匠にならって自分の作品もつくりはじめた。木材は栃と楓をよく選んだ。木地を挽き、生漆を塗りかさね、すべての工程を自ら行う。仕事が休みの日曜日が、作家としての時間になった。材料費が足りず、アルバイトもした。
師匠から受け継いだ技のうえに、音もなく花ひらくような、内木さんだけの表現が見出されていった。
石川の伝統工芸展新人賞・奨励賞。現代美術展珠洲市長賞。伝統工芸木竹展入選。
作家としてのオーダーが増えていく。日曜日だけではつくりきれない注文になってきたとき、ひとり立ちを考えた。
—— 2025年4月、独立。手に職がついた。入門から、やはり5年経っていた。
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ひとりの作家として生きること
「静謐な、余白をつくりたい」と言う。
32歳になった現在は、加賀市内で借りた工房と自宅を行き来する。作品は日本各地での展示会で発表され、旅館や茶会の主催者などが内木さんのうつわを求めた。香港、台湾でも展示をひらいた。漆器文化がない海の向こうでは、驚きをもって迎えられる。
技が世界に広がっていくなかで、「正直に言って迷いはつきない」と言う。
「どんな場面に自分のうつわがあっても嬉しいんです。でも私は曲線の美しさや、奥行きがある木目の表情に手間ひまをかけて、使っていても眺めていても心地いいものを作りたい。だから、誰でも気軽に手に取れるものではないこともわかっています。自分の作品がどんな方々に受け入れていただけるのかを、いつも考えています」
腕が上がり評価が高まるごとに、うつわは暮らしと隔たっていく。——「大きな絵」に、近づいている。工芸に一直線に打ち込んだ結果、再びひとりの作家としての生き方に向き合わざるを得なくなった。

しかし、いまははっきりと、つくりたいものがある。「料理をつくる人や、お酒をもてなす人。私のうつわをつかってくれる人たちと、もっとたくさん会いたいと思いますね」そう話す。
美に触れて16年、工芸に居場所を求めて8年。ひとり立って2年目のArtisanは、木々に囲まれた山のなかで、つくり手としての生き方を探しはじめたばかりだ。
Text by GANTAN






