

叔父からの連絡をきっかけに、慣れ親しんできた和傘の世界へ
河合さんが和傘職人の道を進まれるに至った経緯を教えてください。
母方の実家が和傘問屋を営んでいて、母も経理として働いていたので、私も小学生くらいまでは毎週土日や夏休みをそこで過ごしていました。
その頃は祖母も和傘職人として働いていて、祖母への憧れはずっとありました。母が事務作業をする部屋から祖母の作業スペースが見えたので、夏休みは毎日のように祖母が張りなどの作業をするところを見ていました。
また、たまに百貨店の催事に行って和傘作りを実演している場面を見たりして、大勢の人の前で和傘の作業を淡々とこなす祖母を見て、かっこいいなと思っていました。
でも中学生になり部活が始まるとお店に通うこともなくなってしまい、そのまま高校を出て大学に進学して、東京で和傘とは関係のない職種に就いたんです。
最初は広告代理店で、ホームセンターやドラッグストアなどの折り込みチラシを作っていました。ただ、印刷前は毎週仕事が終わるのが夜中の2時、3時になるので、「これはちょっと続けられない」と思ったんです。
それで岐阜に戻りました。私は簿記の資格を持っていたので、税理士事務所で会計の仕事に就きました。それから2〜3年後、27歳か28歳のときに、和傘屋を営んでいる叔父から「人手不足だから手伝ってくれないか」と声をかけられ、叔父の会社に入社したのが和傘の世界に入ったきっかけです。
幼少期から和傘が身近だったこともありますし、「力になれるのであればやりたい」という気持ちでしたね。

それからどのようにして和傘職人の道を進んでいったのですか?
叔父の会社に入って、最初は傘に傷がないかをチェックするところから始めて、少しずつできることを増やしていきました。叔父の会社は分業制なので各工程に職人さんがいるのですが、みなさんご高齢だったので、ゆくゆく作業できる人がいなくなって困らないように一通り自分で工程を把握しておこうと思いました。
和傘の作り方についてはつきっきりで教えてもらえるわけではなく、一度作業のやり方を見せてもらい、あとは実際に自分でやりながら覚えていく感じだったので、仕事のあとに練習時間を取るのは結構大変でした。
練習用の傘があるわけではないので、きれいにできたものは商品にして、ダメだったものは訳ありで売ったりもしました。私の場合は自分の作った傘が店頭で販売されるまでの期間が短く、半年から1年くらいだったと思います。
それは小さい頃から和傘屋に毎週通って職人さんに遊んでもらったり、いろいろな作業を見せてもらったりしていたので、なんとなく手つきを覚えていたんですよね。その経験が生きているというか、ベースになっていると思います。

岐阜県は和傘の生産額日本一ですが、そもそもなぜ岐阜で和傘文化が広がっていったのでしょうか?
ひとつは、江戸時代の藩主が武士の内職として和傘作りを奨励したこと、もうひとつは、岐阜の有名な和紙である美濃和紙や竹、油など和傘を作るのに必要な材料が長良川流域に揃っていたことです。
それらが川を下ってここ湊町で水揚げされていたことで発展していきました。ですので、岐阜は和傘以外にも、うちわや提灯といった竹や和紙を使った工芸も有名です。
全盛期はどのくらい和傘の職人さんがいたのですか。
もう石を投げれば当たるというような感じでした。和傘はこのあたりの一大地場産業だったので、岐阜市の南側にある加納エリアを中心に、和傘作りの道具を取り扱う専門店がいくつもあったぐらいです。
昭和の頃は月に100万本くらい和傘が作られていました。職人さんの数も多く、このあたりではみんな何かしら和傘に携わっていたので、競い合って作られていたんですね。だから今見ると「どうやって作ったのかな」と思う和傘が博物館に並んでいたりします。
蛇の目傘と言われる傘は骨の数が44本から48本なんですが、骨の数を100本にしたものもあり、精巧な作りのものが多く作られていました。それから、今の和傘は閉じたら外側は1色のものが多いのですが、当時は外側に絵が描かれていて、閉じると鶴が描かれていたり、グラデーションになっていたりしました。
昔は分業制で、色を塗る人はひたすら塗りの作業をし続けるので、それぞれの工程の技術がどんどん高まっていきました。どれだけ個性を出せるかの勝負だったんだと思います。
現在の職人さんの数はおおよそ30人ほどと聞いています。工房は、私の知る限りでは5軒ほど、和傘の部品を作られている工房が2軒です。
私が和傘作りを始めて8年目なのですが、工房の数自体は変わらないものの辞められている方はやはり何人かいらっしゃいます。ただ同時に新しく始めた方もいらっしゃるので、直近、職人さんの数は大きくは変わっていないと思います。
一本一本に技術と想いを詰め込んで
和傘は一本作るのに2ヶ月ほどかかるそうですが、完成までの流れを教えてください。
まず、部品屋さんから傘の開閉を司る「繰り込み」というパーツと傘骨を仕入れます。そのあと傘が閉じたときにきれいな形になるよう傘骨にカーブをつける「ためかけ」を行って、糸で繰り込みと傘骨を繋ぎます。
そうすると、開閉できるスケルトンの和傘みたいな骨組の状態になるんです。そこに、何工程かにわけて和紙を張っていきます。雨傘も日傘も、和紙1枚で仕上げる場合は同じものを使いますが、日傘は「二重張」といって、雨傘に使うものよりも薄い和紙を2枚重ねて仕上げるものもあります。
次に、和傘を美しく閉じるために和紙に折り目をつける「たたみ込み」をして、雨傘の場合は雨をはじくために油を染み込ませて天日干しをします。日傘は和紙のままで使用するので、油を染み込ませる作業は行いません。
そのあと、外側の骨の上だけに塗装して、最後に内側の傘骨に補強と飾りを兼ねた「糸かがり」という作業を行い、部品をつけて完成です。
お話を聞くだけでも膨大な工程を経ているのがわかります。その中でも特に大変な作業はありますか?
和傘は和紙を張るまでの骨組の準備で良し悪しが8割くらい決まってくるので、土台作りが本当に大切です。
私が一番気を引き締めて臨むのは塗装の作業です。最終段階の作業なので、失敗すると全部無駄になったり訳あり品になったりしてしまいます。失敗するとどうにもできないので、特に集中力が必要ですね。

和傘を作るうえでの、河合さんのこだわりを教えてください。
和傘はよく「開いて花、閉じて竹」と言われます。岐阜和傘は閉じたときが細身で美しいと言われているので、閉じた姿にこだわっています。開いたときの華やかな姿のほうに注目されることが多いですが、傘は閉じている時間のほうが長いので、その佇まいがきれいだと「よくできたな」と思います。
また、日々たくさんの和傘を作っていると、何十本の中の一本というふうに考えてしまいそうになるのですが、お客さんにとっては一本中の一本なんですよね。どんなに作業が立て込んでも、それを思い出してしっかり一本ずつ作っていきたいです。
どのようなお客さまが和傘を購入されるのですか?
日常使いに買われていく方が圧倒的に多く、贈り物や撮影用に購入される方もいます。外国の方が買われるのかとよく聞かれますが、お客様のほとんどが国内の方です。
以前お客さまから、「和傘を使いたいから、雨の日が楽しみになりました」と言ってもらえたことがあってすごくうれしかったです。

河合さんが思う和傘の魅力を教えてください。
雨傘は、雨粒が和紙を叩く音が独特で、洋傘とは違うので面白いなと思います。ピンと張ったテントに雨粒が当たるようなイメージの音です。
それから雨傘は、外側から見ると暗めの色に見えるんですよ。新聞紙などもそうですが、油を染み込ませると色が濃くなるんです。でも内側から見ると光を通してとても明るく見えます。日傘も陽にかざすと繊維や色合いが鮮やかに浮かび上がってすごくきれいです。これは和傘を使った人だけの特権ですね。
和傘は、重くて手入れも大変というイメージがある方も多いのですが、重さに関しては持ってみると「そんなに重くない」という感想がほとんどです。また、一回使ってみると手入れも難しくないので、ぜひ一度実物に触れてみてもらいたいなと思います。
繊細な技が込められていながら実用的という点も和傘の魅力ですね。より長く使うためにはどのようなお手入れが必要でしょうか?
日傘は特に必要な手入れはありません。雨傘は、使ったら乾かすという点だけ気をつけてもらいたいと思います。丁寧に使ってくださる方だと、10年くらい修理なしということもあります。
実はずっとしまいっぱなしで使わないのが、一番早くだめになってしまいます。油と油がくっついてしまうので、定期的に使ってもらったほうが長持ちしやすいです。

重要なのは、安心して職人を続けられる環境作り
和傘の職人として、河合さんが思う課題はありますか。
昔は和傘作りの一大産地として、作れば作るほど売れるというような状況で、商売として成り立っていたんですよね。職人さんもたくさんいて、多少安価でも量を作ってカバーできていました。
でも職人さんが減って、量産はできないのに単価は安いままで、商売として成立させるのが難しくなっていきました。
和傘の道に進むために働いていた税理士事務所を辞めるとき、所長から「職人である前に個人事業主であることを忘れるな」と言われたことを覚えています。
商売として成立させるためには、やはりしっかり稼いで職人としての対価を得るというサイクルを作ることが必要です。生活を削らないと和傘を作れない状態では、いい和傘はできません。生活していくために和傘を作るという本来の形にしていきたいです。
若い世代への技術継承なども重要になってくるかと思いますが、河合さんのお考えを教えてください。
もう一度和傘が地場産業として岐阜市に根付いてほしいと思っているので、一子相伝というよりは、仕事として若い世代に参加してもらえる環境を作らないといけないなと思っています。
やはり他の仕事と変わらないお給料をもらえないと職業としての選択肢に上がらないですし、和傘を作ってみたい人に「安い給料で我慢してね」という、いわゆるやりがい搾取みたいなことでは続いていかないので、ちゃんと仕事として成立する状況にしないといけないですね。
そのうえで和傘作りの技術を伝えていくための場所や道具、材料の確保などを行い、次の世代に繋がる環境を整えていきたいです。

今後どのような傘を作っていきたいですか?
仐日和を始めたときから掲げている、「年齢や性別、服装を問わない和傘」をこれからも作り続け、より充実したラインナップにしていきたいです。
また、今年子どもが生まれたこともあり、子どもたちにも和傘に触れてもらう機会を増やしたいと思っています。節句や七五三、成人式などの撮影用の和傘はもちろん、実際に使ってもらえるような和傘を考えていきたいです。子どもの頃から大人になるまで、長く使ってもらえる和傘を作ることができたらうれしいです。









