



「文字」を書きはじめたころのことを覚えているだろうか。鉛筆やクレヨンを握って、あるいは小学校の習字の時間に墨汁で指先をまっくろに染めながら。
いまはキーボードやスマホのフリック操作、音声入力も普通になった。生成AIを使って文章を書くことも今後ますます増えていくだろう。その一方で、自分の手で文字をしたためる楽しみも忘れられてはいない。手帖は幅広い世代に人気で、万年筆をはじめとしたクラシックな文房具のファンも多い。「書く」営みは、これからも多様性していくはずだ。そのなかでもとりわけ歴史が古く、謎めいた道具——「筆」が、日本の伝統的工芸品に指定されている。「筆司(ふでし)」と呼ばれる職人によって生み出される、筆の世界を訪ねてみよう。

国内シェア8割 12人に1人が筆づくりに関わる「筆の聖地」
JR呉線・矢野駅から路線バスに乗り込む。九十九折りの山道をぐんぐん登り、峠をひとつ越えると視界が開け、町が現れる。広島県安芸郡熊野町である。標高500~700mほどの山々に囲まれた盆地にあるこの町は、取材時は田んぼが青々と広がる夏祭りの時期だった。
ビルは低く、住宅はひとつひとつが大きい。大型のドラッグストア、個人経営の居酒屋。ごくありふれた地方都市の町並みをバスの車窓から眺めていると、見慣れない看板が目につく——「筆屋」だ。書筆からメイクブラシまで、全国の筆の8割の製造を担う「日本一の筆の里」として知られる。
人口約2万3,000人のうち約2,000人が筆産業に携わる熊野町で、会社組織としてはもっとも長い歴史を持つのが「文宏堂」である。伝統工芸士・篠原紫香さんは、その創業家に生まれた。


72工程の熊野筆の技
篠原多佳子さん、雅号・紫香(しきょう)。彼女の職場である文宏堂の工房に入ると、さまざまな色の毛が並んでいた。
筆は大きく「穂首(毛先部分)」「ダルマ(毛を束ねて固定する部分)」「軸」からなり、熊野筆の特徴は穂首部分。その素材はあらゆる生き物の毛だ。
「ヤギ、イタチ、ウマ、タヌキ、リス。赤ちゃんの髪の毛で『胎毛筆』をつくったり、ペットの毛で筆をオーダーする人もいますよ」
毛を選び組み合わせることで、筆は文字・絵・化粧などの用途に対応した道具となる。毛をこれほど豊かに使い分ける道具は「服」と「筆」くらいだろう。
「イタチの毛なんて、筆以外には使い道がないですよね。でも書き味に独特な粘りが出る最高級の素材なんです」
一掴み10万円を超える原毛もあるという。熊野筆の技法のほとんどは、この原毛の特性を最大限に引き出すためにあるといえる。

毛に灰をまぶして鹿皮で包み、揉むことで脂や汚れを抜いて毛質を整える「毛揉み」。さらに熱を加えて毛のクセやうねりを伸ばす「火のし」。さまざまな毛の種類や量を調整しながら均一に混ぜ合わせる「盆混ぜ」「練り混ぜ」。毛先は決して切らず、根元で揃える。それを何層かに分けて「巻く」ことで、自在に感触を生み出す。動物の種ごと、一匹一匹の個体ごと、その部位ごとの毛質に合わせて加工は千変万化する。
「72工程もあるなんて、どれかショートカットできそうだと思うでしょう? でもつくればつくるほど、全部必要だと納得がいくんです」
その創意工夫の痕跡が工房のあちこちに残っていた。穂首を梳かし続けた鉄櫛は削れて凹み、毛を揃える「手板」は指を添えた場所がえぐれている。
身体と道具との長い対話の末に無数の筆を生み出してきたのは、筆づくりの名人、通称『筆司』たち——かと思えば、そうではなかったという。篠原さんは、熊野町が筆の聖地になった歴史を話してくれた。

「筆司」と「筆巻きさん」の3世紀
「人によっては300本、1,000本と穂首をつくってくれる人がいましたね。父が製造途中の筆を検品して『もっとさらえた(毛先を整える)ほうがええ』『だいぶ味(手触り)がようなったのう』なんて指導しているのを小さなころから見てきました」
のどかな農村であった熊野町で筆づくりが始まるのは、約3世紀前の江戸時代末期である。奈良や兵庫から筆づくりの技術が伝わって農閑期の収入源のひとつとなり、明治期の学制発布で書筆の需要が急拡大、一大産地へと発展していく。
そのなかで文宏堂は明治40年(1907)に創業し、大正9年(1920)に地域で最初の筆製造会社となった。さらに戦後は画筆や化粧筆にもジャンルが広がっていく。現在メイクブラシの製造で国際的な評価を受ける“化粧筆”の名門「白鳳堂(はくほうどう)」も、文宏堂の親族が創業した会社である。
「いま熊野筆は各社が筆職人を抱えて製造していますが、もともとは“内職”で成り立っていたんですよ。多くは夫が自動車工場で働いて、奥さんが家で子育てをしながら筆をつくっている、というような主婦の仕事だったんです」
伝統工芸のものづくりでは、徒弟制度のなかでの修業を経て一人前の職人を育てていく環境が珍しくない。しかし熊野町を日本一の筆の里に育てたのは、職人の名を持たない無数の女性たちの手であった。
「筆をつくる内職の人は『筆巻きさん』と呼んでいました。祖母は近所にお嫁さんが来たと聞くとすぐスカウトに行って、『筆巻きさん』になってもらうんです」
篠原さんは昔を思い出しながら笑う。緻密な分業制で高い品質を維持する、町をあげての家内制手工業。それが産業としての熊野筆のあり方であった。
内職で筆を巻き続けた女性たちの多くは、伝統工芸士のような公的な認定を受けることはなかった。「いまでは筆づくりの名人を『筆司』と呼ぶことがありますが、私が子供のころはそんな言葉も聞いたことはありませんでした」と篠原さんは話す。
穂首を巻く人、軸をつける人、細工を施す人。それぞれの「筆巻きさん」の家から、100本、1,000本という単位で筆が続々と出来上がってくる。篠原さんはその様子を見ながら育ち、やがて実家の事務作業や出荷を手伝うようになった——そのころは、のちに自分が「つくる側」になり、筆司として伝統工芸士に認定されるとは考えもしなかった。

40歳で筆職人の道に入った遅咲きの伝統工芸士
「『筆司会』に行ってみん?」
きっかけは篠原さんが40歳のころ、文宏堂の経営層に入っていた姉からの誘いだった。「筆司会」は伝統工芸士の資格を持つ筆職人が地域の後進に直接技術を指導する勉強会である。
「昔は筆づくりの技術は職人が秘伝のように大事にしていたのですが、後継者も不足してきて。どんどん習って継いでもらいたいという姿勢に変わったんですね。『じゃあちょっと行ってみようか』といった感じで、筆づくりを習いはじめたんです。そうしたら、すごく面白くて」
素材を目の前にすると、はじめての作業にもかかわらず自然に工程をイメージできたという。物心つく前から見ていた「筆巻きさん」の技を覚えていたのだろうか?
「そんな自覚はなくて...…先生の教え方がうまかったんだと思います。それに毛の混ぜ方も道具の使い方も職人ごとにみんな違って、興味深かったです。父からは『いまから筆づくりなんか無理じゃ。甘い世界じゃない』と反対されましたが、職人さんにも筆司会の技術を教えてあげられると思って」
伝統工芸と聞けば、若くして師匠のもとで修業に明け暮れる姿も思い浮かぶ。しかし篠原さんは実に軽やかに筆づくりの道へ入るのである。
——それから。篠原さんは文宏堂の職人として何万本という筆をつくり、72工程をすべて習い、注文をこなす合間に自ら作品としての筆を手掛けるようになる。
いまでも飽きることのない筆の魅力とは何ですか、そう聞くと篠原さんは古い新聞紙を開いた。
「これは細微光峰(さいびこうほう)といって、もっとも毛先が繊細な羊毛なんです。とても貴重で、いまでは手に入らないかもしれない。こういう美しい毛を見ると、もう『出会ってしまった』という感じで。どんな筆にしようか、すごいワクワクしてくるんですよ」
その毛を包んでいた新聞の日付けは、昭和47年。ふれてみると半世紀前のものとは思えないほど軽く、やわらかく、あたたかい。篠原さんを惹きつけ続けるのは、文宏堂が長年集め続けてきた原毛だった。
「物との出会いも、人との出会いと同じ。奇跡みたいなものだと思うんです」


筆になることを待つ命
2026年2月、筆司会の後押しで伝統工芸士の認定試験を受け、合格。雅号は「紫香」となった。いまもっとも新しい熊野筆の伝統工芸士である。
「文宏堂を支えてくれた『筆巻きさん』たちや、私に筆づくりを教えてくださった先生方の技術を継いでいく覚悟が決まったんです」
取材の終わりに、工房の2階にある倉庫に案内してくれた。ほのぐらい部屋のラックに箱が並んでいる。
「この茶箱にはいままで集めてきた毛が入っています。父が残してくれたレガシーだと思っているんですよ。これを私が筆にしないでどうするんだと」
筆になるのを待っている毛があるから。篠原さんの動機はとても純粋で強い。このようにして継がれていく「伝統」もあるのだ。筆職人を目指す若い人が、文宏堂の毛を筆にする日も来るだろう。
「一緒につくっていく、という感覚で技術を指導していきたいですね。ものができていく過程は本当に楽しいです。私もあと10年か20年。丁寧に作り、つないでいきたいと思います」
茶箱が並んだ倉庫のなかは、かすかに生き物のにおいがした。姿の見えない、とても大きな動物が眠っているようだ。どれだけ時代が進み書くための道具が変わっても、ここにある毛は人の手によっていつか筆となり、紙の上を走るだろう。
Text by GANTAN







