



京都の建仁寺塔頭・両足院に、27畳もの黒い畳が敷き詰められた。
伝統的な寺院の空間を一変させたこの仕事を手がけたのは、代々続く老舗の職人ではない。海外生活を経て畳の魅力に目覚め、30歳を超えてから、未経験で畳職人の世界へ飛び込んだ、とある畳工房の「初代」である。
YOKOYAMA TATAMIの横山充氏が、いかにして伝統を現代に「適応」させ、畳の新たな可能性を切り拓いているのか、その手仕事と思想の核心に迫る。
異国の地で芽生えた、畳への渇望
かつてオーストラリアで船大工として働いていた横山充氏。土足が基本の生活の中で、床に直接座ったり、寝転がったりする日本の慣習が恋しくなっていった。中でも強く心を捉えたのが、畳の存在だった。
「海外で生活していると基本的に土足文化なので、床に直接座ったり、寝転がったりすることがあまりありません。そういう生活をしているうちに、畳の上でそのまま寝転がれる感じがすごく恋しくなりました」
い草の香り、肌に触れたときの感触。それらは横山氏にとって、遠い故郷を思い出させるノスタルジックな感覚の源泉だった。その思いはやがて手仕事への情熱と結びつき、日本文化の象徴として畳づくりを志すことになる。華道や茶道、寺院といった日本文化の粋が集まる空間。その足元には、いつも畳があったからだ。
「日本にしかない畳を自分の手で作って、それを世界の人にも知ってもらいたい。それが畳の道に進んだ大きな理由です」と横山氏は振り返る。船大工として培った道具の扱いや、手を使って正確に美しく仕上げるための思考は、形を変えて現在の畳づくりへと受け継がれていった。

特定の師を持たず、初代の道を切り拓く
30歳を超えてから、未経験で畳職人の世界へ。周囲からは心配の声が上がるなか、唯一信じて支えてくれた妻のサポートを背に、横山氏は畳の技術を学べる学校の門を叩いた。しかし、彼の歩みは一般的な徒弟制度とは一線を画すものだった。
「実は、僕にはいわゆる『師匠』と呼べる方はいません。学校で基本技術を学びながら、当時はいろいろな先生や職人さんに、分からないことをとにかく聞いていきました。それぞれの作り方や作業の進め方を自分でも試して、その中から自分に合うもの、良いと思うものを取り入れて、今の自分のスタイルになっています」
特定の師を持たないからこそ、多様な技術や考え方を吸収し、独自のスタイルを築き上げることができた。しかし、代々続く畳屋が信用を築いてきた京都の地で、「新参者」が仕事を得る道は平坦ではなかった。注文がなく、先行する老舗の暖簾を羨んだ時期もあったという。
風向きが変わったのは、一つ一つの仕事を愚直にこなし始めてからだった。SNS全盛の時代にあって、京都では今も人から人への「口コミ」が何よりの信頼の証しとなる。一つの仕事が評価され、次の仕事へとつながっていく。その連鎖が、少しずつ「YOKOYAMA TATAMI」の名を広めていったのだ。


黒畳が示した、伝統空間の新たな可能性
横山氏の名を世に知らしめた仕事の一つが、建仁寺塔頭・両足院に納められた27畳の黒畳である。以前から製作していた黒畳が、2018年のKYOTOGRAPHIE京都国際写真祭において、建仁寺塔頭・両足院に27畳敷き詰められ、大きな注目を集めた。
「歴史のあるお寺の空間に黒い畳を27畳敷き詰めるという、とても斬新な空間が生まれました。畳は色や見せ方を少し変えるだけで、伝統的な空間の中でもここまで違う表現ができるんだと、自分自身も改めてその可能性を感じた仕事でした」
この黒畳は、天然のい草を芯まで黒く染め上げたもの。表面的な装飾ではなく、素材そのものは伝統的な畳と同じい草であり、時と共に色褪せ、表情を変えていく。伝統的な畳にない色を使うことに、抵抗はなかったのか。その問いに、横山氏は自らが「初代」であることの自由を語る。
「僕は何代目という立場でもなく、自分が初代なので、新しいことをすることに対して抵抗はまったくありませんでした。自分では伝統を壊しているという感覚はありません。どうすれば畳を今の時代に残していけるのかを考えていました」
新しい表現から畳を知った人が、その先に本来の畳や日本文化に興味を持ってくれるかもしれない。それもまた、伝統を未来へつなぐ一つの方法だと、横山氏は信じている。

守るべきものと、変えていくもの
黒畳や海外展開など、一見すると伝統から逸脱しているかのような横山氏の仕事。しかし、その根底には「変化」ではなく「適応」という、明確な哲学がある。彼にとって、畳とはすでに完成された素晴らしいプロダクトであり、大きく変える必要はないものだという。
「ほんの少し色を変えたり、使い方を変えたりするだけで、今までとは違う方向や可能性が出てくる。だからこそ、い草のような畳本来の材料や、基本的な作り方はなるべく変えたくありません」
この思想は、海外へのアプローチにも貫かれている。現地の気候や文化、使い方などを深くヒアリングし、必ずしも最高級の天然い草が最適解ではないと判断すれば、和紙や樹脂といった新素材を提案することもある。すべては、その場所、その人にとっての「ベストな畳」を届けるためだ。守るべき核と、時代に合わせて柔軟に変えるべき領域。その境界線を、横山氏は冷静に見極めている。
「あまりいろいろなものを変えてしまうと、それはもう畳ではなくなってしまうと思うんです。僕がやりたいのは畳を別のものにすることではなく、畳らしさを残したまま、今の時代にどう適応させていくかということです」
この言葉にこそ、代々続く畳屋ではなく、「初代」として畳と向き合う横山氏の思想が凝縮されている。それは、過去から受け継いだものをただ守るのではなく、現代の文脈で再定義し、未来へと手渡していくための実践なのである。

数十年後の「次の職人」を思う。見えない部分に宿る手仕事の美学
手仕事にこだわる横山氏にとって、職人の技術は完成時の美しさだけにとどまらない。機械を使えば1枚30分で作れる畳も、手縫いとなれば一日では終わらないという。その中でもっとも神経を使うのが「寸法」だ。
「畳はどれだけ綺麗に作っても、その空間に合うサイズに仕上がっていなければ意味がありません。一枚だけを見て美しいというものではなく、部屋に敷いたときにきちんと納まって初めて完成するものだと思っています」
一見すると分からないプロの技術の差は、この「納まり」や縫い方、畳縁の付き方に如実に表れる。さらに横山氏は、畳が持つ時間軸の美学についてこう語る。
「畳は使っていれば必ず少しずつ痩せてきます。でも上手な職人が作った畳は、年月が経って痩せてきても、隙間の空き方まで綺麗なんです」
その美意識は、数十年後の未来へも向けられている。
「上手な職人が手がけた古い畳を解いてみると、次にその畳を直す人のことまで考えて仕事をしていると分かることがあります。後の職人が仕事をしやすいように作られているんです。完成したときに綺麗というだけではなく、長く使うことや、その先に修理する人のことまで考えて作られているのが、日本の職人技術だと思います」

技術と仕組みを次代へ。初代が描く畳の未来
YOKOYAMA TATAMIの工房には今、初めての弟子がいる。横山氏が彼女にまず教えるのは、徹底した伝統技術の基本だ。その土台があって初めて、新しい表現が生まれると信じているからだ。しかし、自身の模倣を求めるつもりはないという。
「基本を身につけた後は、僕と同じ畳を作る必要はない。自分がどんな畳を作りたいのか、どんな職人になりたいのかを自分で見つけてほしい」と語る横山氏。その眼差しは、技術の伝承だけでなく、職人が自立して生計を立てられる「仕組み」づくりにまで向けられている。
「技術だけ残っても、それを仕事として続けられなければ、次の世代には残っていかないので」
海外へ畳の魅力を伝える活動を続ける一方で、近年は日本の人々にも改めてその価値を届けたいと考えている。今後は、日本の他の伝統工芸やデザインと協業し、この国から新たな価値を生み出していくことにも意欲を見せる。伝統と革新。その両輪を回しながら、初代としての道はこれからも続いていく。
継承する「家」を持たず、自らの手で道を切り拓いてきた横山氏の仕事は、伝統とは時代の中で適応していく動的な営みであることを示している。
初代として自らの足跡を刻み、未来へつなごうとする職人の確かな意志が、その言葉には感じられた。
記事トップ画像:Photo by Yan Kallen











