



東京の下町である、亀戸・浅草に店を構えるべっ甲細工職人「ベッ甲イソガイ」。ウミガメの一種「タイマイ」を原料に、簪(かんざし)やアクセサリーなどの宝飾品を作り続けている。
1992年、ワシントン条約によって原材料の供給路が絶たれてしまった。その危機に対し、2代目統括の磯貝剛さんを含む業界有志は、ウミガメの一種「タイマイ」の養殖事業という、産業存続のための挑戦に乗り出した。
伝統を未来へ繋ぐための磯貝さんの格闘と、その先に見据える景色を一緒にのぞいてみたい。

地産地消の対極に生まれた、稀有な伝統工芸
多くの伝統工芸が、その土地で採れる素材を生かして発展する「地産地消」を王道とする。しかし江戸鼈甲は、その真逆の道を歩んできた極めて稀有な工芸だ。
主原料は、熱帯の海に生息するウミガメの一種「タイマイ」の甲羅である。その歴史は古く、約1300年前には大陸から日本へ持ち込まれ、正倉院の宝物である琵琶や八角螺鈿箱の装飾にもその片鱗を見ることができる。
装飾品としての価値が確立したのは江戸時代。元禄期に庶民の間で、贅沢な装飾品として簪が大流行したことで、工芸品として広く認知されることになった。
「もともとはタイマイと呼ばれていたんです。でも江戸時代の贅沢を禁止した奢侈禁止令を逃れるために、『すっぽん(鼈)の甲羅だ』と偽ったことから『べっ甲』の名が定着したんです」
1975年に創業したベッ甲イソガイ。系譜を辿ると、江戸時代末期に浅草橋で簪を作っていた伊勢元という鼈甲屋に行き着く。伊勢元で修業した親方に、磯貝さんの祖父が弟子入りし、それを受け継いだ先代が独立する形で、ベッ甲イソガイが始まった。
「簪づくりの技術を受け継いできました。簪ができればなんでも作ることができる。重ねたり、温めてカーブをつけたり、色の黒い甲羅と黄色い甲羅を接着したり、さまざまな技術を持っていることが、うちのものづくりを支えています」


ワシントン条約と、父が繋いだ職人の道
江戸鼈甲に最大の危機が訪れたのは、1992年。ワシントン条約によってタイマイの国際取引が全面的に禁止され、原材料の供給が完全に絶たれたのだ。
幼い頃から職人である父や祖父の姿に憧れを抱き、いつか職人になりたいと思っていた磯貝さん。しかし条約の影響で家業の先行きは不透明になり、教員の道を目指すようになった。
転機が訪れたのは、大学3年生のとき。父から「材料を確保したから、家業を継いでも大丈夫だ」と声をかけられたことだった。
「なんとか商売を続けられるようにと、父は倹約して材料のタイマイを買い集めました。私はもともと職人になりたかったので、それならばやりたい! と職人の道を歩み始めました」
家業に入った磯貝さんが取り組んだのは、事業構造の抜本的な改革だった。祖父の代は簪や帯留めを問屋に卸すのが常識だったが、着物文化の衰退とともに注文は減り続け、ビジネスモデルは限界を迎えつつあった。
磯貝さんは踏み込んだ決断を下す。顧客の顔が見え、ニーズを吸い上げられる小売りに活路を見出し、卸業から完全に撤退することを決めたのだ。
「思い切って卸はなくして、自由なものづくりをしたいと思ったんです。そのために、『簪は作らない』と父親に宣言しました」
磯貝さんのものづくりは加速する。「毎年1つ新しいシリーズを発表する」ことを自らに課し、伝統の枠を越える挑戦を続けた。「べっ甲の価値が下がる」と先代からはタブー視されていた、トルコ石やサンゴなど異素材とのコラボレーションにも積極的に取り組んだ。
「初めは父も受け入れませんでしたが、勝手にお店に並べたところお客さんからは好評だったんです。教えられたことだけでは、新しいものを作れない。材料や道具を組み合わせて実現できたことで、一人前の職人になったんだと改めて感じました」

個性を生かす、3兄弟のユニークな協業体制
事業が軌道に乗ったことで、家業を離れていた兄と弟も工房に加わった。弟は宝飾の専門学校を卒業後、ジュエリーメーカーの仕事で金属加工の量産技術を習得。兄は木を扱う商社の勤務経験があった。3人の職人が揃ったが、単純な分業体制を選ぶことはしなかった。
「兄弟でも、得意不得意があります。効率的に作業するのが得意な弟。丁寧にものづくりをする兄。異素材など新しいものを組み合わせるのが得意な私。それぞれの美しいと思うものが違う。その違いを生かせる形を考えました」
2002年にオープンした亀戸店を兄が担当、2005年には弟が浅草店を担うことになり、磯貝さんは工房での制作に専念する体制が生まれた。働く場所を分けることで、互いに遠慮することなく、個性を最大限に発揮できる環境を整えたのだ。
「それぞれ責任を持ってもらった方がうまくいく。お客さんのニーズに合わせた商品開発なども行っています。だから、店舗で置いてあるものが微妙に違うんです。
各人の個性を生かした協業のありかたは、ひとつひとつ異なる表情のあるべっ甲だからこそできたことだとも思うんです」


未来への投資。「石垣べっ甲」と「TURTUNE」の挑戦
現代のニーズに応える製品開発を進める一方で、磯貝さんはタイマイという原料の安定供給にも向き合い続けてきた。
ワシントン条約によるタイマイの輸入規制後、国の予算での養殖研究を経て、2017年に業界の有志たちが立ち上がった。自己資金を出し合い、沖縄に「石垣べっ甲株式会社」を設立。産業存続を懸け、タイマイの養殖事業を自ら行う道を選んだのだ。
「家具屋さんが木を育てるようなものです。出資者である私たちが養殖で育ったタイマイを買い取ることで、会社を運営しています。大変ではありますが、べっ甲の素材を確保することができるようになりました」
この取り組みは、さらに新たな価値の創造へと繋がった。磯貝さんはこれまで活用されてこなかったタイマイの首の皮に注目し、革製品ブランド「TURTUNE」を企画し、稀少なタイマイの革で作った財布やカードケースなどの販売を始めたのだ。
「SDGsや環境問題への意識もあり、タイマイの甲羅だけではなく、肉やこれまで活用されてこなかった皮も、丁寧に扱おうよということで始まりました。利益はほとんどありませんが、姿勢を示すことが大事だと考えています」

地産地消ではないからこそ、世界と繋がっている
江戸鼈甲の抱える課題は、根が深い。ワシントン条約の影響で、輸入だけでなくべっ甲を海外に持ち出すことも禁止されているため、インバウンド向けの製品展開はできない。さらに原料が誰でも手に入れられる状況ではないことが、後継者育成の課題になっている。
課題は山積みである。それでも、未来への希望をたしかに感じる瞬間があると、磯貝さんは教えてくれた。
「去年ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の方からべっ甲を作ってほしいと頼まれて、何百年前も前からバイオリンをべっ甲で飾っていたことを知りました。
今は海外と関わることは難しいですが、地産地消でないがゆえにべっ甲はもともと世界と繋がっている。だから諦めないで続けることで、面白いことも生まれるかもしれない」
さらに、磯貝さんの娘さんが、家業を継ぎたいと言ってくれた。困難な状況でも続けていくことが、べっ甲のみならず日本の手仕事を支えていくのだと、磯貝さんは教えてくれる。
「グローバル経済で世界が平坦化していくなかで、日本の手仕事はやはり素晴らしいものだと思うんです。大変なこともありますが、手を動かすのをやめたら失われてしまう。だからこそ楽しんでものづくりを続けていく。それが大事だと思います」
作り、届け、そして育てる。磯貝氏の挑戦は、江戸鼈甲というひとつの工芸の枠を超え、日本のものづくりの未来そのものを照らしている。
Text by 荒田 詩乃


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