



うつろっていくもの—— 一目みて、そうした印象を持った。
澄み切った色彩とガラス質の輝きが見る角度によって深みを変える。静物でありながら、どこか生命感があった。
古川千夏さんの作品のベースは「有線七宝」である。銀線で区切った空間にガラス質の釉薬を流し込む工芸テクニックだが、その作品は見慣れた「七宝焼き」とは一線を画す。
表面を入念に研ぐ「本道」に対し、古川さんの作品は銀線が立ち上がり、釉薬も表面張力を得て盛り上がっている。素地の上に同居するそのコントラストそのものが、美しさの核となっているように見える。
33歳、作家として独立し4年目。工芸を下敷きに育て上げた独創的な作品の秘密を本人に聞いてみよう。東広島市内の山深いアトリエを訪ねた。

七宝焼きで遊ぶ少女
古川さんのアトリエは最寄り駅から車で20分ほどの、田んぼに囲まれ遠くに山々が連なる場所にあった。木々のざわめきと蛙の鳴き声が聞こえる民家を買い取って暮らし、そこで作品をつくっている。
「金属を扱うには工具や機械が必要で、大きな音も出ますから」
金工の道具は、一般的な住宅なら床が抜けてしまうほど重いものもある。手入れされた襖や欄間のある和室の畳を補強床に張り替え、アトリエとした。
制作は銀や銅などを成形する「絞り」の工程から始まる。叩くたびにカチン・カチン......と槌の音が響く。


1993年、広島市生まれ。実家は伝統工芸に携わる家ではない。
4歳で書道を習い、絵を描いたり、ビーズをつないだり、手を動かして細かなものをつくることが好きな少女だった。七宝にはいつ出会ったのか。
「美術系の高校で絵や彫刻、陶芸などを体験する特別科目があって、そのなかに『七宝』もあったんです。ほかの分野にも取り組みましたが、私には特に七宝がとても面白いと思えました」
自分にしかできないことをやりたかったんですよね、と古川さんは言う。この言葉は取材中に何度も出たから、きっと彼女の性分なのだと思う。
短い特別科目が終了したあとも、古川さんは機会を見つけては七宝づくりに挑戦するようになる。小さなブローチから始め、だんだんと立体物へ。とはいえ専門家に習えるわけではない。
「受験期に七宝を学べる大学があるかな?と探してみたのですが、七宝専攻がある大学が見つからなかったんです。それなら七宝は金属を加工してつくるのですから、地元の広島市立大学で金工を勉強しようと思いました」
工房の後継ぎに生まれたわけでも伝統工芸に親しんだわけでもない。古川さんは「もっと七宝で遊びたい」という想いだけで、ひとり金工の道に足を踏み入れた。

12個の蓋物 未完成のほうがいい?
2012年に入学し、金工を基礎から学んだ。金属板はいくら叩いてもうつわにならず、蓋物は蓋と本体がずれる......。学生たちのなかで悪戦苦闘しながら古川さんが取り組んだのはもちろん七宝だ。「周りで七宝をつくっているのは私だけでした」。“明治の超絶技巧”で知られる七宝作家・並河靖之に憧れ、技法書を探しては読み、試し、失敗を繰り返す——3年生のある日、転機が訪れる。
「それ、すごくきれい」
ゼミの友人が指差したのは、製作途中の七宝だった。研ぎをかける前で、銀線も釉薬も凹凸が残ったままだ。「まだつくりかけだよ」と教えても、「ここで終わったらダメなの?」と言う。
ちょうどその頃、古川さんはいままでにないほど忙しい制作課題に追われていた。「メタファー」という課題に対して、春・夏・秋・冬に見立てた4つの蓋物を連作する——そのアイディアを研究室で働いていた先輩に相談すると、思いもよらない答えが返ってきた。
「4個じゃなくて12個つくってみろよ。そのくらいじゃないと見る人は驚かないだろ?」
すでに工芸技術をベースにした美術家として活動していた先輩のアドバイスを、古川さんは信じ込んだ。制作に駆り立てられ、文字通り寝る間もない。
「いまより技術も足りないなかで、絵柄や色、形を変えて12個もの蓋物をつくるのに必死でした。そこで1個だけ『つくりかけ』を混ぜてみたんです。すると......その未完成のものがみんなからすごく好評で。これってアリなの?という感じでした」

古川さんはここで、自分がそれまで「完成」と考えていた七宝とはまったく違うものに光が当たるのを初めて見た。
七宝作家・古川千夏の作風の原型である。
銀線をあえて研ぎきらないことで釉薬との間に陰影が生まれ、七宝の構造があらわになった途上に美がある。友人と先輩の言葉のおかげで、思いがけず「自分にしかないもの」が見つかった。これを突き詰めよう、と決めた。

「この2年でやめよう」常識外れの七宝は世に出るのか
私には師匠がいません。でもそれが良かったと思うんです。七宝のことを知らない友人が自分の作風を見いだしてくれましたし、伝統的な技術を学んでいたらこの表現は怖くて出せなかったと思います」
2016年、就職を控えた大学4年生のときに大学院への進学を決める。下積み経験も、コンペの入賞歴もない。無名の学生だった。
「2年で作家として認められなかったら諦めようと思いました。もしダメでも、ここまで努力したから仕方ないと思えるくらいは頑張ろうって」
全国各地の工芸コンペへの挑戦が始まった。豆皿から大型の立体まで、コンペの要件に合わせ制作の幅をむりやりにでも広げ、応募を繰り返す。「生き急いでました」と笑う。
研究室のなかで発見した有線七宝のスタンダードとはあまりに違いすぎる作風が、工芸の中心地で評価されるのか?
しかし——それは次々と受賞していく。
金属工芸公募展「いまからまめさら2016」山中源兵衛賞、オーディエンス賞。第5回「そば猪口アート公募展」準大賞。「ART MEETS ARCHITECTURE COMPETITION 2016」最優秀賞。「2017金沢・世界工芸コンペティション」入選。
「でも作風にオリジナリティがあったから受賞できたとは思っていないんです。大学院に進んで、鍛金や彫金の基本的な技術が上がってきました。絞り、やすりがけ、蝋付けなどの精度が高くなって、ようやく『人に見せられるもの』がつくれるようになったんです」
作風に煌めきを与えたのは、大学で学び続けた金工の技だった。
2018年、大学院修了の年。天保9年創業の金工の名店「清課堂」(京都)で初個展を開催。作家としての値打ちがついた瞬間だった。


伝統との距離 いま生まれようとする美しさ
母校の助教を経て2023年に独立。現在も国内外で受賞を続け、手のひらにのる小品から公共空間に置かれるオブジェまで手がける。取材の数日前には韓国でのグループ展から帰国したばかりだった。作品のオーナーは、通りすがりに展示を見て一目惚れして買った人から熟練の金工作家まで幅広い。
「工芸品だからじゃなく、いまここにしかない私のものをきれいだと思ってくれるのがうれしいんです。七宝がどんなものかを知らなくても、一目見て私の作品だとわかってもらえたら。誰かと比べられるものであれば、私がつくらなくてもいいから」
創作の参考にするものはありますかと尋ねると、「ここは空がきれいなんです」と言う。
「空の色と色のさかい目を見ているのが好きで。それをきれいだと思う、一つひとつが私の感覚の蓄積になっている気がします」
正統を継ぐ道も、抗う道もある。古川さんは教わる環境にいなかったことで、周囲の言葉に動かされ、自分だけの道を歩み出したと言える。とても険しい道だが、ひとりではない。
「4個じゃなくて12個つくってみろよ」——。
あの蓋物の連作にとりかかったとき、そう言った先輩がいた。実はいま、古川さんはその先輩と結婚しているのだ。
空の下でふたつの槌の音が聞こえてくる。新しい世代のArtisanはどんな作品を生み出していくのだろうか?空や音がいまここにしかないように、常にうつろいながら生まれようとする途上の美しさに触れるときを楽しみにしたい。

Text by GANTAN







