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知多木綿の竹内宏商店、生地のスペシャリストが目指す国産織物の再提案
2025.03.17
知多木綿の竹内宏商店、生地のスペシャリストが目指す国産織物の再提案

愛知県知多市

有限会社竹内宏商店
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知多木綿の竹内宏商店、生地のスペシャリストが目指す国産織物の再提案
知多木綿とは、慶長年間(1600年前後)に農家の副業として生産され、江戸へ送られていた生白木綿に端を発しています。明治からは動力織機の発明によって生産量が飛躍的に伸びました。
竹内宏商店は1953年に知多市岡田で創業した生地問屋です。問屋業以外に岡田で知多木綿のアンテナショップを開設し、知多木綿の魅力を伝える活動をしています。

名古屋の南に突き出るように延びる知多半島。丘陵地に穏やかな陽射しが降り注ぎ、みかんなどの栽培が盛んな地域だ。その半島の北西部、伊勢湾に面した海沿いから半島の中心部へ向かって車で走った先にある岡田地区は、かつて知多木綿と呼ばれた綿織物の中心地だった。

「昭和30年から50年にかけて、知多の織物組合には700軒近くが加盟していました。1万人くらいの人が木綿産業に従事していたそうです。当時は今より人口が少ないですし、かなりの確率でお隣さんが繊維の仕事に就いていたんでしょうね」

当時の様子を語るのは、同地で生地問屋を営んできた竹内宏商店の社長・竹内亮さん。同社を創業した祖父の故・宏さんから3代にわたり岡田を見てきた。

「昭和の後期になると組合の加盟数も一気に減り、平成の初めには3分の1以下になってしまいました。今はもう10軒前後です」

岡田の道は細い。その小径の両脇に江戸から明治にかけての土蔵や黒板塀が、かつて集まったにぎわいと富の面影を残すように立ち並んでいる。その小径が県道へ顔を出そうかというところに、今回お話をうかがうために訪れた、竹内宏商店が営む知多木綿のアンテナショップ「Chita Cotton 478(よんななはち)」がある。

知多木綿を知る場所がなかった

竹内宏商店は、1953年から生地を染屋に卸すことを生業として、この地域に根付いてきた。

「はんてんやのれんなどに対して、生地屋と染屋をつないで商品を納める仕事。今も業務内容はあまり変わっていないです」

布と染色をつなげるコーディネーターである亮さん自身は、まずは実家の会社の生地を取り扱っている染屋に2年半ほど勤め、生地が染まる工程や不具合の起こり方などを学んでから家業を継いだ。

「家業を継げと言われたのは、半々くらいです。まったく言われなかったわけでもないですし、強く言われたわけでもない。しかし小さな頃から、継ぐんだというのは心のどこかにあったので、抵抗や反発はそこまでなかったです」

父・和行さんの代までは企業間の取引だけだったが、亮さんの代である2019年に、上述のアンテナショップを出し、一般消費者との接点も持つようになった。

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「知多木綿をもっと知ってほしいのに、知ってもらえる場所がなかったんです。ただ、最初から知多木綿に強い思い入れがあったというわけでなく、この仕事に携わり始めたときは、たくさんある生地の一部が近くで織られている生地屋さんのもの程度の認識しかなかったです。長い歴史があって、知多木綿と呼ばれている商材だということもまったく知らず、ただ、仕事を通した付き合いや経験を重ねるうちに、元々ここはすごい産地だったんだということを知りました」

たとえばトヨタグループの創始者である豊田佐吉。明治に日本初の動力織機を発明して今あるトヨタ自動車などの礎を築いたが、同氏は岡田で織機の研究をしていたという説もある。また綿織物は一時期、日本における主要な輸出品だった。

「現状を見ると、知多木綿の生産量は最盛期の2〜3%ぐらいまで落ち込んでいます。しかし、知多が綿織物の産地だったからこそうちの商売が始まったので、そのルーツとして何か知多木綿に対してできることはないかと思い、アンテナショップを作りました」

時代が進んで生まれるギャップの埋め方

かつて知多に綿織物の産業が興隆していた時期。木綿は今以上に生活と密着したものだった。しかし時代とともに生活様式は大きく変化。かつての社会の仕組みを頭の中に残した状態で知多木綿を扱おうとすると、どうしても市場は狭くなる。

「たとえば、今の人たちにも浴衣を着てもらおうと思い、キャンペーンを張ったとします。もちろん多少は売れますが、大きくは売れないです。なぜなら年に浴衣を着る機会は男性なんてほぼゼロ。女性、とりわけ若い子たちで年に1、2回とか。それも花火大会やお祭りくらいです。紙オムツが出る前はサラシがオムツでしたが、今の時代にサラシをオムツで使いましょうと言っても、みんなが使ってくれるわけではない。いくら木綿が昔からあるいい素材であっても、便利になった今の生活様式に合わせたものに作り変えていかないと広がらないです」

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そのため現代に知多木綿を溶け込ませるために作ったのが、知多木綿の特性を生かすためのオリジナルブランド「WATAKUMI(わたくみ)」だった。まず木綿の白シャツを商品として打ち出した。

「シャツ自体は浴衣の生地なんです。知多木綿は昔から浴衣や手ぬぐい生地の産地で、白木綿をずっと織り続けてきた歴史があります。その歴史に合った商品を作ろうと思いました。ただし浴衣生地で普通に浴衣を作っても仕方ないため、日常的に誰でも使える白シャツを作ってみようというのが最初の商品開発です」

その白シャツを手に取ってみると、前向きな違和感があった。頭に記憶として残っていた木綿より、実際の生地は想像以上にふんわりと柔らかい。

「ノーアイロンの大量生産品のシャツが量販店で売られているじゃないですか。じつは私も買って使うのですが(笑)、コットン100%でノーアイロンにするのはどう考えても無理がある。つまり後の加工でアイロンのいらない仕様にするんです。大量生産で機能性を持たせようとすると、やはり昔は当たり前にあった本来の素材感や着心地からは、少し変わったものが出来上がってしまいます」

シャツの隣には、帆布と刺子を使ったボストンバッグも陳列されていた。バッグ表面の木綿の素材感が美しい。

「事前に市場調査をしたわけではなく、自分で着られるもの、使えるものといった感じで作りました。白いシャツもメンズで、じつは私が着るために作ったんです。ところが最初に買ってくれたのは女性。今の購入者の男女比は半々です」

WATAKUMIのブランドページには「木綿ソムリエ」と謳った亮さんのプロフィールが載る。「ああ、あれはね」と亮さんが照れながら言う。

「ブランドを立ち上げるときに何かインパクトある言葉を作ろうということで、100種類以上の生地を扱っているので、ブランドの立ち上げに協力した人から木綿ソムリエと名付けてもらったんです。何か国家試験があるとかではないですよ(笑)」

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生地問屋として目指すもの

亮さんが目指すのは、今は輸入品が中心となっている取り扱い生地を、国産品に戻すことだ。

「輸入品に変わったのは安いから。もちろん安さが全て悪ではないんですけど、中には染まりが悪い生地があって、その産地が海外で遠いと問題解決ができないんです。染屋さんにとってストレスなく、当たり前のように染まる生地を扱っていきたいと思っていて、できることなら生地を国産品に戻したいです」

海外から日本国内へと素材を見直すことは可能なのか。

「織物工場は織ってくれるので、あとはうちの体力次第です(笑)。国内で回そうと思うと価格が2、3割上がるため、いくら良いものであっても、価格の点においてそれが受け入れられるかはわかりません。産業としての規模は最盛期の700軒から約10軒まで減っていますが、残っているところは技術に対してすごく勉強しているとか、独自の強みを持った工場ばかりです」

そんな亮さんにとって、生地問屋としてのやりがいは何か。返ってきた答えはじつに仕事人だった。

「納めた生地が綺麗に染まり、何もクレームがないときです。平常運転をしているときが一番幸せですね。木綿は自然由来の素材ゆえ、染屋さんの技術をもってしても、思っていた色とデザインで、何十枚と同じように染めることは非常に難しいです。だからこそ何も連絡がないとき、『今回綺麗に染まっていたよ』といった言葉もいらないですし、当たり前のようにリピートしてくれることこそが一番うれしいです」

黙々と確実に顧客の要望に応える。そうだ、竹内宏商店も時代を経て今に残ったお店のひとつだった。

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Text by 守隨 亨延

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