

すべては、女性たちの働く場所をつくることから始まった
「この会社は1935年に創業しました。この山形の小さな町に、中国から7人の職人を招いたのが始まりです。当時は不況と凶作で、女性の働く場所をつくりたいという先代の思いから立ち上げました」
渡辺社長は、築80年を超える木造社屋を見上げながら語る。淡いピンク色の外壁は「女性の仕事場の象徴」でもあるという。この建物は登録有形文化財に指定され、今も現役の工房として稼働している。
戦時中は羊毛が手に入らず、創業者が葛の根を糸にして織りを再開。戦後はGHQやマッカーサー夫人が訪れ、皇居やバチカン宮殿にも納入した。「踏まれる芸術」としてのじゅうたん──その哲学は、創業当時から変わらない。

経営危機から生まれた「山形緞通」──伝統を再定義する
渡辺社長が会社を継いだのは、バブル崩壊の直後。
「売り上げも社員数もピーク時の3分の1。このままでは終わると思いました」
そんななかで生まれたのが、新ブランド〈山形緞通〉だった。
「うちは伝統工芸の会社だと思われがちですが、実際は“インテリアメーカー”なんです。だからこそ、“伝統”という言葉に縛られたくはなかった」
「山形」という地名を冠したブランド名を商標登録するまでには長い道のりがあった。しかし、「この土地にじゅうたんという産業を根づかせたのは自分たちだ」という歴史あるプライドが、その名を支えた。
社員全員が意見を出し合い、職人も営業も一体となってブランディングを進めた結果、“ものづくりへの誇り”が会社全体に再び息を吹き込んだ。


世界的デザイナーとの共創が開いた新たな扉
「山形緞通を立ち上げたとき、いちばん大きかったのは人との出会いです」
地元出身の工業デザイナー・奥山清行氏との協働で生まれた作品「UMI」は、同社を象徴する代表作となった。それまで“売れる”という実感を持てなかった職人たちに、自信と誇りを取り戻させてくれたという。
「奥山さんとの仕事で、職人たちの目が変わったんです。“自分たちの技術が評価される”という実感があった」
その後、建築家の隈研吾氏、クリエイティブディレクターの佐藤可士和氏、テキスタイルデザイナーの皆川明氏など、名だたるクリエイターが工房を訪れた。特に皆川氏との「happy ocean」シリーズでは、絵画のようなグラデーションを表現するために、染色職人が独自の「絣染め」を開発。これまで不可能とされた柔らかな色の揺らぎを再現した。
「技術は守るものじゃない。挑戦することで磨かれるものです」

手の技を支えるのは、職人と一貫生産の仕組み
オリエンタルカーペットの強みは、染色から織り、仕上げ、アフターケアまでを自社で完結できる一貫生産体制にある。
「この敷地の中で、じゅうたんづくりのすべてが完結する。これは他にない強みです」
染色室では2万色以上の糸を自社で管理。織りの現場では、職人が1日わずか数センチずつを一結び一結び手で織り上げる。仕上げ段階では、特殊なバリカンで柄を削り出す「カービング」技法が生きる。立体的に浮かび上がる模様は、機械では再現できない美しさだ。
工房では若い職人の姿も多い。
「今では県外から“職人になりたい”と山形に移り住む若者もいます。うちの原点は女性の手仕事。繊細な感性が品質を支えているんです」
手仕事の現場には、静かな集中と確かな自負が満ちている。


“日本のラグジュアリー”を発信する次の挑戦
コロナ禍を経て、渡辺社長は次なるステージを見据える。
「国内ではありがたいことに多くの建築家やデザイナーに支持していただいています。
これからは、海外に“日本のじゅうたん文化”を伝えたい」
ドイツやフランスの展示会の展示会に参加し、ヨーロッパを中心とした海外市場での販路拡大を進めている。一方で、国内では「車はいらないけど、家にはいいラグを敷きたい」という若い世代の支持も増えている。SNSを通じて広がるその輪が、次の時代の山形緞通を支えている。
「うちのじゅうたんは“飾る”ものではなく、“使いながら育てる”ものです。それが日本のラグジュアリーのかたちだと思っています」








