

暮らしの中に残る町で、火を灯し続ける
江戸期の面影を色濃く残す内子町。国の伝統的建造物群保存地区に選定された町並みは、観光用に整えられた風景ではなく、今も人が暮らし、子どもたちが通学路として歩く生活の場だ。その一角に、大森和蝋燭屋がある。
朝8時。作業場では静かに一日の準備が始まる。竹串に芯を通し、蝋を溶かす火加減を確かめる。気温や湿度、その日の空気を肌で感じながら、作業に入るタイミングを決めていく。和蝋燭づくりは、決められた手順をなぞる仕事ではなく、その日の環境と対話するところから始まる。
櫨の実が育てた町と、消えかけた仕事
内子町はかつて、櫨の実から採れる木蝋の生産と輸出で栄えた町だった。石油が普及する以前、蝋は貴重な原料であり、生活に欠かせない存在だった。内子で作られた木蝋は、国内のみならず海外にも出荷され、町の経済を支えていたという。
しかし、パラフィン蝋の普及とともに和蝋燭の需要は急速に減少した。町にいくつもあった蝋燭屋は次々と姿を消し、今では四国で唯一、大森和蝋燭屋だけが残っている。
「先代たちは、別の仕事をしながらでも、店だけは残そうとしてきたと聞いています」
その選択がなければ、この場所で和蝋燭の火が灯ることはなかった。


継ぐつもりはなかった家業
大森さんは、最初から家業を継ぐつもりだったわけではない。幼い頃、和蝋燭はあまりに身近で、特別な存在とは感じられなかった。むしろ「古い」「これから先、続く仕事なのか」という否定的なイメージすらあったという。
一度は家を離れ、別の仕事に就いた。人と接し、ものづくりに関わるなかで、次第に価値観が変わっていった。
「作っている人と、使う人が直接話せる仕事って、実はすごく贅沢なんじゃないかと思ったんです」
作業場と店が一体となり、客が職人の手元を見ながら商品を選ぶ。その距離の近さは、他ではなかなか得られない体験だった。そして何より、黙々と蝋を重ねる父の背中が、年を重ねるごとに格好良く見えてきた。
なぜ、手で重ねるのか——生掛け製法
現在和蝋燭の多くは、型に流し込んで成形される。一方、日本には古くから、蝋を手で塗り重ねて形を作る「生掛け製法」が伝えられてきた。
「最初は正直、なぜわざわざ手で塗るんだろうと思っていました」
一本の芯に、何層も蝋を重ねていくことで、断面には年輪のような模様が現れる。その表情は一本ずつ微妙に異なり、職人の手の動きや間が刻まれる。
伝統的な和蝋燭の炎は明るく、煤が少なく、風にも強い。生活の灯りとして使われてきた理由が、そこにはある。大森さんは、見た目の美しさだけでなく、一本の蝋燭に祈りをこめるように手を動かす。その行為自体に意味があり、だからこその製法が受け継がれてきたのではないかと感じている。
温度と季節に身を委ねる仕事
溶けた蝋の温度は、およそ45度前後。高すぎても、低すぎても、理想の形にはならない。さらに難しいのが、季節による変化だ。
夏は蝋が固まりにくく、形が崩れやすい。冬は逆に、急激な冷え込みによってひびが入ることがある。
「蝋燭職人は一人前になるまでに10年かかる、と昔から言われてきました。それは四季の違いを繰り返し経験しないと、安定したものが作れないからだと思います」
午前中は蝋を重ね、艶を出す作業を行い、昼過ぎから芯を切り出し、長さを揃えて仕上げていく。同じ工程の繰り返しに見えても、その日の判断は微妙に異なる。

和蝋燭が生む、豊かな時間
大森さんのもとには、和蝋燭を使ったお客様からの声が届く。誕生日の夜、食事のあとに何気なく和蝋燭を灯した家族。普段はあまり多くを語らない子どもが、その炎を囲むなかで、ぽつりと胸の内を話し始めた——そんな出来事を、感謝の言葉とともに伝えてくれた人もいた。
また、ゲストハウスや人が集まる場で灯した際には、初対面同士だった人たちが自然と輪になり、静かに言葉を交わす時間が生まれることもあるという。
祈りや供養のためだけでなく、誰かと気持ちを共有するための灯りとして、和蝋燭は今も暮らしの中に息づいている。
「僕たちは蝋燭を作っているけれど、本当は、それを使う誰かの“時間”を作っているのかもしれないと思うことがあります」
また、コロナ禍をきっかけに発信の方法を見直したことで、海外からの声も増えた。シンガポールや台湾でのワークショップでは、日本の和蝋燭に対する真剣なまなざしに触れ、伝え方も職人の仕事の一部なのだと実感したという。
近年は、若い和蝋燭職人が少しずつ増えてきている。作り手が増えれば、原料を育てる農家も守られる。文化は一人ではなく、循環の中で続いていくものだ。








