for fontplus
Illust 3
Illust 1
【第3回】独立と試行錯誤──人間国宝・宮本貞治の作風の誕生
2025.09.15
【第3回】独立と試行錯誤──人間国宝・宮本貞治の作風の誕生

滋賀県大津市

宮本 貞治
Map

宮本 貞治

人間国宝。木工芸作家であり、滋賀県湖西に工房を構える。日本伝統工芸展などへの出展を重ね、木工芸作品の創作活動を行っている。

木工芸

木材を加工し、鉋や鑿などの道具で成形・研磨を行い、木目を活かした造形に仕上げる。素材は多様な天然木を使用し、家具や工芸作品として日常生活で使用される。

師匠のもとで修業を終え独立した宮本貞治は、当初は仕事が少なくアルバイトをしながら制作を続けていた。伝統工芸展への出品を重ね評価を高める一方、自身の作風確立には長い試行錯誤を要した。琵琶湖の波紋に着想を得て独自表現に至った過程が語られる。
【第3回】独立と試行錯誤──人間国宝・宮本貞治の作風の誕生
師匠・黒田乾𠮷さんのもとで修業をした、人間国宝の宮本貞治さん。基本的な木工芸の技術を学びながら、作品づくりとは何かということを自身の中で具体化していく日々だった。そうして長い修業期間を終え、一人の木工芸作家・宮本貞治として独立を果たす。
第3回の配信では、宮本さんの独立直後の生活や、作品づくりの苦悩をお聞きした。弟子入りし、みっちりと鍛えられたとはいえ、そう簡単に仕事があるわけではなかったというリアルな話、そして師匠とは異なる宮本さん自身の作風は、どのようにして成立していったのか、その原点が語られる。
<前回は宮本さんが師匠・黒田乾𠮷さんとの出会いと修業時代についてご紹介しました。詳しくはこちら。>

独立、そして伝統工芸展への挑戦

10年という約束のもと、黒田乾𠮷さんから木工芸とは何たるかを教わった宮本さん。

「10年の修行期間は長かったのか、短かったのか。今思えばあっという間の時間でした。弟子入りした時から使わせてもらっていた桜の仕事台を頂いて、親方の仕事場を後にしました」

独立と同時に今の奥様とも結婚され、夫婦二人三脚の日々が始まる。

「弟子入りしていたとき、師匠のところに注文をよく入れてくれた社長さんがいました。その依頼のあった作品を私が作っているのを知っていたので、独立したときには師匠を通さずに、僕のところに直接注文を流してくれたんです。まったく収入がなかったときだったので、うれしかったですね。

独立当初は、近くの大工やさんの所へバイトに行き、今月何日バイトしたら、二人生活できるかなと計算していました」

独立したとはいえ、最初から仕事がたくさん入り込むような簡単な道ではなかった。無名の職人であった宮本さんは、ここから精力的に伝統工芸展へ作品を出展していくことになる。

「伝統工芸展には、本展と支部展というのがあるんですが、そこには独立した31歳のときから挑戦していました。その年の本展に初入選を果たして以来、毎年作品を出品しています。というのも、特に支部展では、頑張って良い作品を出せば、ちゃんと評価してくれて、賞を頂きました。そうなると賞金も出るので、少しは生活が楽になっていきました」

その言葉通り、宮本さんは着実に評価を高めていく。1995年には日本伝統工芸展で日本工芸会奨励賞を、2012年には日本工芸会保持者賞を受賞するなど、工芸において国内でもっとも権威のある公募展で名誉ある賞を次々と獲得。その名は、木工芸の世界に広く知られることとなった。

とはいえ、ここに至るまでには並々ならぬ努力があった。バイト生活をしながら工芸品の制作に、寝る間も惜しんで没頭したそうだ。

冗談交じりで「受賞は宝くじを買うよりは確率が高かった」と話してくれたが、その輝かしい賞を獲得するための努力の日々を、自慢話のようにひけらかしたりはしない。そうした振る舞いに、宮本さんの人柄が表れているようだった。

第20回伝統工芸木竹展(令和7年度) 「楓拭漆盤」
第20回伝統工芸木竹展(令和7年度) 「楓拭漆盤」

自分の作品とは何か

伝統工芸展への出展を休んだことはないと語る宮本さん。ということは、40年以上も新たな作品を制作し続けていることになる。毎年新たな着想を得て、それを作品に落とし込むというのは、かなりの労力が求められるはずだ。作品づくりをしていくなかで、壁にぶち当たったことはなかったのだろうか。

「31歳で独立して、自分なりの考えやデザインを作品に落とし込んでいきました。僕としては、師匠のところで勉強したこと以外にも、自分の感性を表現しているつもりでしたが、どうやらそう思っていたのは自分だけだったようです。

見る人が見たら、黒田さんのところのお弟子さんだねってすぐわかるんですよ。もうね、黒田のにおいが染み付いちゃったんです。そりゃそうですよね。10年も弟子入りしていたんですから。井の中の蛙そのものです。

黒田のにおいが取れるまでに、10年以上はかかりましたね。本当の意味で自分のオリジナル作品が出せるようになったのは、40歳を過ぎてからのことだったと思います」

1人の職人のもとで修業をするというのは、そういうことなのだろう。昔から「学ぶは真似ぶ」と言ったものだ。まずは師匠のように「なる」ことがすべてだった。

宮本さんも、「31歳になって独立して、そこから急にこれまでと違うことなんてできるわけないし、もしそんなことができたとしても、それは本物だとは言えません」と話してくれた。

Illust 2

琵琶湖、そして水上スキーの経験を作品に

前回の配信で、宮本さんは作品づくりについて「人の手でしかできないこと」を大事にしていると語っていた。一度でも宮本さんの作品を見たことがある人なら、その曲線美に目を奪われたことだろう。

その中でも、宮本さんの代表的な手法は木の表面に波打つような模様である。たとえば、第50回日本伝統工芸展で記念賞を受賞した《栃拭漆波紋盤》(とちふきうるしはもんばん)などがまさにそうだ。こうした技法の着想源はどこにあったのか。

「独立してからは、常に自分にしかできない表現とは何かを探していました。その着想の起源となったのは、ここ滋賀県の琵琶湖です。独立後に湖西に工房を建てたので、毎日のように琵琶湖の風景を眺めていました。

あるとき、琵琶湖で水上スキーをする機会があり、ボートに引っ張られながら、船の後方に残る波跡に見惚れてしまったんです。これをなんとかして作品に取り入れられないだろうか。そう考えたのが、今の作風の原点になります。それも40歳を過ぎてからのことで、ここにたどり着くまでにも、いろいろと試行錯誤をしてきましたよ」

人間国宝である黒田辰秋さんをそばに感じ、その息子の乾吉さんのもとで学んでいたという視線は、常に付きまとっていたはずだ。それを打破するきっかけが琵琶湖という自然の存在だったのも、木工芸との繋がりを感じさせる。

見えないプレッシャーを見事に跳ねのけ、一人の職人として作品を作り続けた宮本さん。その長年の功績が認められ、2023年、70歳で重要無形文化財「木工芸」の保持者、いわゆる人間国宝に認定された。木を刳り抜いて形作る「刳物(くりもの)」の卓越した技術と、琵琶湖の波紋に代表される自然の情景を映し出した独自の芸術性が高く評価されてのことだった。ここに、名実ともに日本を代表する木工芸家・宮本貞治が誕生したのである。

第50回日本伝統工芸展(平成15年度) 第50回展記念賞 「栃拭漆波紋盤」
第50回日本伝統工芸展(平成15年度) 第50回展記念賞 「栃拭漆波紋盤」

(第4回では、人間国宝となった宮本さんが教育の現場に立ち、デジタル技術が発達するなかで、若手への技術継承の本質が語らます。)

#Artisan#人間国宝#滋賀#伝統工芸#木工芸#歴史#日本文化#技術
よろしければ、記事の感想を教えてください
シェア
関連する記事
百年の道、匠の声シリーズの記事
滋賀県の工芸の記事